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――ああ、会社に戻りたくない。 重い気持ちで公園をふらついていた僕は、何気なくベンチに腰掛けた。 内臓が全部飛び出るんじゃないかってくらい深く、ため息を吐く。 「何やら、悩ましげですね」 抱え込んだ頭に、隣から声が飛び込んできた。まったく気が付かなかったが、すでに誰かが座っていたようだ。 顔をあげると、初老の男性が爽やかな微笑をこちらに向けていた。 赤の他人と話したい気分ではない。 といって、無意識とはいえ、わざわざ彼の座るベンチへ並ぶことを選んだのは僕だ
「だきしめや」という仕事は、夏の需要が低い。 なぜなら、人の体はどうしても熱いから。 抱き締めあって、冷たくて気持ちいいと思うことは、少ないというか、まずないだろう。あるとすれば、冷房がキンキンに効いていて、それにさらされた女性だったら、あるのかもしれない。 女性の方が、男性より皮下脂肪量が多い。皮下脂肪は、体温を維持するため、外気や他の要因を受け、温かくも冷たくもなりやすい。一度冷たくなった皮下脂肪は、その冷たさを保つ。 だが、「だきしめや」が行われるのは、基本外。
僕が入る墓(前編) 目の前に広がる田園風景を真っ二つに分けるように一本のアスファルトでできた道がどこまでも続いていた。僕は先を行く明美の黒くしなやかな後ろ髪から溢れた残り香をたどりながら、これ以上距離を離すまいと歩数を増やして後を追った。明美の腰のあたりにはまるで大気にひびが入ったかのように陽炎が揺らめき、明美の体にまとわりついていた。 「早くー」 「待ってくれよ」 「もうバテちゃったの?」 「いいや。まだまだいけるよ」 「早くしないと置いてっちゃうわよ」 明
■あらすじNZ署のグロンデル警部の管轄で殺人事件が起こる。その被害者、半人半機の半機人シリスの事件を追う警部。その頃国の軍部を牛耳る「騎士団」から不正の証拠を盗み出したフレイボムと半機人レティーナの二人は、「騎士団」の処刑人から追われることになる。 処刑人影騎士とのバイクチェイス、激闘にグロンデル警部も巻き込まれる。しかしシリスの事件は解決を見ず、グロンデル警部はフレイボムたちとともに事件解決へと歩みを進み続ける。 ■本編 雨は上がっていたが、空気は冷え冷えとして、湿り気
いかに仲睦まじい夫婦でも、生まれ育った環境が違うのだから、意見がたびたび対立するのは当然のことだ。例えば子育てに関して―― 実家が自営業の咲良は、子供が小学校低学年のうちから、小遣いを与えてお金の管理を覚えさせるべきだと考える。 一方で、母親がなにかと過干渉だった僕は、中学にあがるまでお年玉も回収されていたから、まだ小学三年になったばかりの奏哉には、必要な物を買い与えればいいと考える。 「親の言うことばかり素直に聞いてると、なにも自分で決められない大人になっちゃう。り
サッカーとかバスケとか、みんな憧れてやっているけど僕は苦手だ。 今は小学校六年生だからクラブも仕方なく卓球クラブなんかに入っているけど、中学生になったら陸上部に入りたい。それも、短距離がイイ。 五十メートル走なら誰にも負けない自信があるのに、僕の小学校には何故か陸上クラブがなかった。 学校で一番足の速いのは僕だったけれど、今日の昼休みに学校で二番目に速い同じクラスの会田くんが勝負を挑んで来た。 「山里くん。オレと五十メートル勝負しようよ」 「勝負? どうせ僕が勝つけ
春の訪れ 森の奥深くの洞穴に眠るヒグマはツバメの鳴き声を聴くなり寝返りを打つ。誰もいないはずの湖のほとりにつがいのシマリスが現れ、風で飛ばされた木の実を求めて草をかき分ける。それを遠くの水面からじっと見つめるカバは水中へと潜って再び水面に顔を出すと、鼻から水を勢いよく吹き出す。シマリスは突然のことに身を震わせて森の方へと去っていく。再びツバメが鳴くとヒグマが寝返りを打つ。どこからか怪物が唸り声をあげながら近づいてくる音がする。白いボートだ。船上には二人の人間が立っている。
兄の正雄の苛立ちをよそに、笑顔で電話している菜摘。 時計に目をやれば、夜中の12時半である。 「さすがにもう遅いから、電話は明日にしたら」 わたしが菜摘に声をかけた時にはもう、例のテーブルの話が始まっていた。 「さっきねぇ、お兄ちゃんとおねえちゃんが喧嘩した。」 スピーカーにしてある菜摘のスマホから、叔母の困惑の声が漏れる。 「なっちゃん大きなテーブルやめてほしいが。」 「急にどうしたの。」 「おばちゃん本棚を作ってくれんろぉか。」 「本棚…菜摘さん本なんて読ま
■前回のお話はこちら アルバイトをすることを決めると、椿はすぐに燕に電話をした。いついつから入ってもらうから、迎えに行くと言われ、椿は了承し、「よろしくお願いします」とぎこちなく言うと、電話の向こうの燕が微笑んだのが見えるようだった。 だが、燕から「お父様とよくお話になってくださいね」と言われて、面倒なのが残ってた、とげんなりしたのだった。 案の定、アルバイトなんて、と父親は反対を表明した。椿はうんざりしたように「同意なんて求めてない。これは報告」と頭を掻きながら言い捨て
当たり前に明日がくる。そう信じて、いや、きっとそんなこと考えもせず、僕は眠りについた。そして目覚めたら、明日はきた。きたけれど、その明日で僕は、すべての記憶を失っていた。 ベッドから起き上がってまず感じたのは、記憶の有無じゃない。これが自分の体なのか、という自意識の歪み。他人の器の中にするりと入り込んでしまったような羞恥と、申し訳なさ。それが僕の意識を支配していた。 慌てて立ち上がり、鏡を探して、バスルームはどっちだ、ということが分からない。手当たり次第に扉を開けて鏡の
読書するぼく 美容院で髪を切り終わった後、たまたま次の予定まで微妙な時間が空いてしまったため、僕は喫茶店で本を読みながら時間を潰そうと思った。お店に入ると、そこら中に人がごった返しており、席が空くまで待機する必要があった。いくら待っても皆席を離れようとはせず、まるでここが喫茶店ではなく、会社のオフィスにいるかのようにそれぞれが自分の決まった席を持っているようだった。僕はなぜここまで長時間席を独り占めしては新たに注文をするわけでもなく、ただ自分の時間に没頭している者たちを店
小高い丘の真ん中に、かわいいお家が建っていました。赤い屋根に白い壁。そのお家の裏庭の奥に、小さな林がありました。そこでは、動物たちが暮らしています。 朝日がのぼると、一番高い木の上で、モズが鳴きます。 「おはよう、朝がきたよ」 その声を聞いて、みんなが起きてきます。リスは、朝日を見に、細い枝をちょこちょことのぼります。野ウサギは、耳をピンと立てて、風の音を聞いています。ガサゴソと木の穴から出てきたのは、タヌキ。 「おはよう。みんな、早起きだね」 大きなあくびをしなが
■あらすじ写真を撮るように、目の前の景色や出来事を書き記す「写真小説家」。それを生業とする私は、依頼人から依頼を受けて、様々な出来事を書き記そうとする。不思議な魅力を兼ね備えた歌手のライブ。最後の舞台に挑もうとするヒーロー。そして、その写真小説家自身。 写真小説を通じて浮き彫りになってくる、「私」の抱えた問題。出会った人々に触れて、「私」の問題への意識は変わっていき、それと向き合おうと決心することになる。 ■本編 聴衆は各々座を占め、思い思いに談笑していた。 ホールは劇場
「ねぇ、パパ。このあと、ネコさんはどうなるの?」 布団の中で、とろんとした目をこちらに向けて、息子の怜央がそう尋ねる。いつもは、「きっと、友だちに会えたんじゃないかな。」と答えるが、なぜかその日は「どうしたんだろうね。」としか答えられなかった。 胸の上を一定のリズムで叩かれて、それ以上尋ねることなく怜央が眠りについたのに、自分は手は止めたものの、そのまま体勢を変えられず、薄暗い光の中、息を吐く。 絵本作家を夢見ていた妻、柚葉は、怜央を身ごもった時から、手作りで絵本を作り