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ショートショート|何の影響も与えられない男

 ――ああ、会社に戻りたくない。
 重い気持ちで公園をふらついていた僕は、何気なくベンチに腰掛けた。
 内臓が全部飛び出るんじゃないかってくらい深く、ため息を吐く。

「何やら、悩ましげですね」

 抱え込んだ頭に、隣から声が飛び込んできた。まったく気が付かなかったが、すでに誰かが座っていたようだ。
 顔をあげると、初老の男性が爽やかな微笑をこちらに向けていた。

 赤の他人と話したい気分ではない。
 といって、無意識とはいえ、わざわざ彼の座るベンチへ並ぶことを選んだのは僕だ。まったく無反応なのも、快くはないだろう。
 考えた末、苦笑いだけを返した。

「どんなに失敗したり、やらかしたりしても、大丈夫ですよ。私より惨めなやつなんて、きっと、この世の中にはいませんから」

 男は気にせず、爽やかな微笑のまま続けた。
 こちらの状況も知らずに、よくそんな気安い励ましができるものだ。
 ストレスフルで怒りの閾値が下がりきっている僕は、思わず声を荒げてしまった。

「なんで、会ったばかりのあなたにそんなことがわかるんですか。慰めてくれだなんて、誰も頼んでいないでしょう」

 初対面の人間に対して、いささか言いすぎだ。吐いていい言葉と口調ではない。それに気づきながらも、自制できない。そんな自分に、余計に腹が立った。

「だって、失敗して落ち込んでいるのは、それが誰かしらに悪い影響を与えてしまうからですよね」

 男は爽やかな表情を崩さない。

「そりゃ、そうですよ。言ってもわからないと思うんで端折りますけど、たぶん数百万円の損失です。職場に戻ったら、大目玉間違いなしです」
「素晴らしいじゃないですか、大目玉」
「いい加減にしてください。失敗して、叱られて、何が良いっていうんですか」

 僕はどんどんヒートアップしていくが、男は涼しげなままだ。

「私はね、この世の中に、何の影響も与えられない男なんです」
「なんですって?」

 男の反論が意味不明な方向から返ってきて、僕は思わず聞き返した。
 世の中に、何の影響も与えられない? いったい何のことを言っているんだ?

 すると、ちょうどそのとき、向こうの方からボールが転がってきて、僕の足と男の足の間に止まった。軟式の野球ボールだ。向こうでキャッチボールをしていた親子が、投球を逸らしたのだろう。
 取ってくださーい、と手を降っている。

「見ていてくださいね」

 男はそういうと、おもむろに立ち上がった。
 かがんで、ボールを拾う。振りかぶる。そして、ぎこちないフォームで投げ返した。
 ボールは親子めがけて、ゆるやかに放物線を――

 ――描かなかった。

 確かに投げられたはずの白球は、気づくと元の通り、僕の足と男の足の間で佇んでいた。
 取ってくださーい、再び親子が叫ぶ声が聞こえる。

「あなたが、投げてあげてください」

 男性に促され、僕はボールを投げ返した。
 今度はきちんと放物線を描き、子どものグローブに収まる。ありがとうございましたー、と子どもは礼儀正しく帽子を脱ぎ、お礼を言った。

「お上手ですね、まっすぐ、あの子のところへ飛んでいった」
「いったい、何が起こったんですか?」

 小さく拍手する男を無視して、僕は問い返す。

「何も、起こらなかったんですよ」

 男は当然のように、しれっと言った。
 表情は変わらず、涼しげだ。

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