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長谷川逸子の建築を訪問して



ポストモダン建築の評価


 建築の意義(=価値)とはなんだろうか。これについて考えるとき、単に建築家の芸術的な発想はどこからきているのかなどの建築的価値観という狭い枠組みで捉えるのでもなく、生活雑誌で取り上げられるような完全に一般化された価値観として捉えるのでもない、そんな捉え方がしたい。それに近い立ち位置として歴史学の立場があると思う。

 芸術としての建築と適度に距離を取り、現実的なありふれた生活の価値観とも適度に距離を取る。多くの人の生活を受け止め、空間が場として形成され、時間を積み重ねる過程を観察しようという立ち位置である。

 これは、単一視点で捉え切ることが難しいだろう。建築家がどのような思想から建築デザインを施し、それが実空間において利用者にどのような影響を与え、人の過ごし方や暮らし方、人どうしの結びつき方がいかにして形成され紡がれてきたかを知ること、あるいは人自身が建築空間やオブジェクトに対してどのような印象を感じ取り、場に関わっていこうとするかに着目するなど、複数の視点を用いて観察し、詳しく知ろうとする姿勢が必要となる。

 このような観察実践を「人と建築の応答史」研究と呼ぶことにする。この研究テーマに即した対象となる施設はあらかじめ使い方や価値が定まっている傾向にある建物よりも、存在意義が問われているような実存的な課題を抱えたビルディングタイプが相応しいと考えられる。例えば公民館の類似施設などは地域の暮らしに関連するという普遍性を持ちつつも特殊な場となる町の需要や建築家の考え方によってバラエティが発生するため本テーマに相応しいビルディングタイプだと考える。

 本稿においては、公共性とよく結びついた建築家とされる長谷川逸子の2つの建築を訪問し、その意匠と使われ方に思いを馳せてみることにする。ちなみに筆者は長谷川逸子が東北大学で行われたオンラインレクチャーを見たことがあり、そのレクチャーの中でしきりに「私の建築は使われてほしかった」という発言していたことが印象に残っている。

 1970年ごろは、供給から消費に移るポストモダンの時期であり、建築の専門家が建築の歴史を引用して過去の意匠を消費しようとした側面もあったが、そうした専門家によるアカデミックな消費ではなく、建築のデマンドサイド(=消費者すなわち利用者)を意識しているということが一息にわかる言葉だと解釈している。

 長谷川逸子に関する知識は今のところそのレクチャーの聴講以外に筆者にはあまりなく、文献なども見ずに建築を見に行ったので、本稿ではそうした文献レビュー的な下地は一旦設けない。感想的な側面が多くなるかもしれないが、今後文献に触れることがあれば追記することとする。

湘南台文化センター

ありふれた郊外に鎮座する「第二の自然」

 1989年竣工の湘南台文化センターは、東京周辺の新興の街のありふれた風景の中に「第二の自然」生み出さんとする意欲作。約8000mの敷地奥に2つの巨大な金属の球体が鎮座し、水晶柱を思わせるぎざぎざの尖ったあかりとりの屋根がずらりと並び、前庭ではたなびく穴あき金属板がパーゴラのように広場を覆う。

湘南台文化センター南西側から
湘南台文化センター北東側から

 ところ狭しと敷地を覆う穴開き金属板は「大気の色をとらえ、自然の変化を直接的に映し出す素材であり、内側の環境と外界の境界を曖昧にする役割を担う。<第二の自然〉の形成する金属によって、光や風など自然要素が建築に取り込まれ、メタリックなランドスケープのなかをこどもたちが歓声を上げて走り回る。敷地には決まったゲートはなく、四方どこからでも侵入できるし、配置した球形劇場などの装置相互の往来のための屋外の渡り廊下や通路も多く設けてある。また、建築の地下化によって広場空間の充実が図られている。

波打つ穴あき板のパーゴラ

 建物の敷地内に入るとすぐに内外空間の構成を目の当たりにして、これは大きな建物だ、見て回るのに時間がかかりそうだと悟る。大きなリュックを背負っていたので市民シアターにコインロッカーを見つけて安堵した。

 「地形の建築」のコンセプトとは、大地の「地」ではなく、地球の「地」だったのではないか。その後、第二の自然の言葉を使い始めたことがよくわかる建築であったように思う。真四角の幾何学的な黒い瓦を積み重ねてコスモロジックな川を表現していたり、そこにメタリックな橋がかかっていたりしてその先に球体がある。球体は地球のメタファーだろうか。いくつもあるから惑星の発想かもしれない。そう思っていたら、近くで見ると大陸がプリントされていたので、これは大きな地球儀のつもりなのだとわかった。

でかい地球儀に印刷された南アメリカ大陸のプリント

 基壇の上には木は生えておらず、金属の柱の上端がバナナの皮を剥いたように裂かれていて、木の葉っぱを表していると思われる。(後でこれはヤシの木を表現しているのだと教えてもらった)連続するギザギザの東屋はアルプスの山だろうか。平板は雲型に切り取られている。

メタリックなヤシの木
連続する東屋
雲型金属板

 聞いた話によると、雲やヤシの木、地球や地層などの自然物を直接模した意匠を散りばめたことは「子供っぽい」と批判されたらしい。しかし、実際に子供たちはそれらで構成された広場の中ではしゃぎ回っていたし、親子で訪問した時に「これはなんの形だろう?」という会話が自然に生まれるわけで、アカデミックではないにしろ、「私の建築は使われて欲しい」という考えと整合していて、利用者の日常を受け止める、楽しませるという状況がかなっている。

 また、建築の専門家からすれば、創作意欲に驚愕させられる。型枠コンクリートで一律に立ち上げればそれで形をなせるにもかかわらず、コンクリートをギザギザさせて模様をつけたり、色を変えたりと、狂気的なまでに多様な表情を与えるエネルギーに頭が上がるはずがない。模様を変えなければ1つの図面で済ませられるところを、訪れた人に楽しんでほしい、喜びのある場所にしたいという考えから、模様の数だけ図面を書いたということなのだから。

模様や色がひとつひとつ違う…

建築訪問したはずが「学び」について考えさせられる

子供の「学び」

 建築を訪れた当日はたくさん雨が降っていたが、子供がたくさんいた。その多くは子供館が目当てだ。子供館ではプラネタリウムや動物の拡大模型、自然科学体験にワークショップなどが体験できる。子供館で印象的だったのは、七夕が近かったこともあり、行事の説明をする掲示物があったが、誰も見ていなかったことである。

 説明的で静的な掲示物よりも、振り子の砂時計やをよく観察して、どうしてこういう動きになっているのだろう?何か規則性があるのかな?などと実際の自然現象を体験する中で、疑問を持ったり、自然科学の中にある規則について自分の言葉でおうちの人とお話しする機会があることは、子どもの好奇心を発動するきっかけになりうるし、教えられるのではなく自分自身で学びとる体験とすることができるのではないか。

 実際に掲示物には誰も注意を払っていなかったし、体験型コーナーのあちこちで歓声が聞かれ、観察する時の真剣な眼差しが見受けられた。プラネタリウムがあったり、惑星どうしの重さの比を実体験できるコーナーがあったりしたところからもその意図が汲み取れる。大きな声で木製ってこんなに重たいの!?と声をあげて体験する子供達の姿が印象的であった。

 教育とは単に完璧に説明することではなく、いかに学ばせ成長させてあげられるかを真摯に検討し実践し続けることであると改めて思った次第である。

青年の「学び」

 三角形をつなげて球形にしたドーム内は、演劇や映画の上映などに使われているであろう劇場がある。四角形の基壇の上の舞台の前に半円形の平場があり、それをぐるりと囲い込むように客席が円状に取り囲む。客席の前後の高さは比較的高く感じ、上の方の席に座ると見下ろすような形で舞台を見ることになる。立体的な空間体験が得られるわけである。

 こうした特徴的な構成は、映画館で映画見ることと比べると、スクリーンへの視線の角度が大きくついてしまって見にくいという側面はあるかもしれない。(それでも労せず鑑賞することはできる)円弧の通路が3つある。照明の量も目に見える範囲だけでもかなり多い。演出の考える幅の広がる空間構成と合わせて、社会教育施設として一般の施設以上に学びがいのある空間になっていると言えるのではないか。

シアター内部の設備(あわよくば舞台前で仰向けになって天井を見上げた写真が撮れればよかったのだが)

 マリンバ演奏のリハーサル中をお邪魔させてもらったが、声は綺麗に飛ばせており、壁から跳ね返ってきたりはしない。湘南台文化センターでは中高生を対象にした舞台技術ワークショップなどが行われており、演者としてだけではなく、舞台装置自体を扱う”裏方体験”もある。これだけ充実した空間や設備があれば、かなり工夫のしがいがあるだろうし、学び多いワークショップなのだろうと推察される。

中高生などを対象にしたワークショップの案内。演者としてだけでなく裏方の体験もできるようである。
浦島太郎の朗読劇のワークショップ

湘南台文化センターの公共性

 子供館では子供達の歓声が絶えず湧いており、公民館の諸室では、発表会間近で歌の練習に没頭するシニアたち、体育館では新体操の鬼コーチと少女たち、チャンバラで戦う子供と大人が見受けられた。公民館が社会教育、社会体育施設としての機能をきっちりと果たしていると言える。劇場では大規模な演奏に向けてリハーサルと照明、舞台配置の確認に余念がないチームの姿があった。小さな子供も少年少女も大人もシニアもそれぞれのアクティビティを心から楽しんでいるように見え、湘南台文化センターの公共性の高さがよく観察された。

すみだ生涯学習センターユートリア

 すみだ生涯学習センターユートリアは、1994年竣工の生涯学習施設。敷地周辺は、車も入れない狭い路地、小さな町工場などが密集している。墨田区民の文化活動や生涯学習活動の拠点として地域の活性化を図るための施設で、館内には、教育相談室、東向島出張所が併設されている。コンペの要綱でメディアセンター・パフォーマンスセンター・学習センターという3つの機能が要求され、機能ごとに分棟化された建築が完成するに至った。

すみだ生涯学習センターユートリア俯瞰(GoogleEarth)

 建物の脇を東武スカイツリーラインの電車が通り、壁によって防音するのではなく環境音として取り込みつつ、スクリーン越しに電車を見ることができる。

東武スカイツリーライン曳舟駅を発車した電車を透かしみる

多義的な諸相

 ところで、近代の時期の芸術を簡単におさらいすると、一枚のキャンバスにいろいろな角度からの見え方を描いたピカソなどの絵画は、それまで一視点から全てのものを捉えようとする透視図法的な描き方とは一線を画し、物事の多義性を表現することに成功した。そうした芸術分野に影響をうけた近代建築は、石造で構造と見た目が分かち難かったそれまでの建築物とは異なり、構造を鉄筋などが担い、表層をガラスとすることで、建物の見た目を多義化させることに成功したと言える。

 この建築の特徴を大きく担うパンチングメタルのスクリーンは、構造と建物の表面のさらに外側に皮膚のようにまとわりつき、一層の多義性を与えていると言えるかもしれない。だが、そうなっていることは簡単に了解できるので、くどい印象は受けず、むしろすっきりとした鑑賞ができるとも言える。

パンチングメタルのスクリーンが船の帆のように曲げられて抱き合う

 パンチングメタルのスクリーンによる多義化とは、単に構造体、カーテンウォール、スクリーンと言う3分割の物質という意味におさまるものではなく、メディアセンター・パフォーマンスセンター・学習センターという3つの機能ごとに分棟化された建物に一体感をもたらすと同時にパンチングメタルの透視性が内外を曖昧化させたり、内部の人の活動をシルエットとして見せたりすることで、建築内外の人のふるまいが相互に演出されたりする効果を生み出すことも含みもつと洞察できる。

スクリーンは血管などの身体組織を覆う皮膚のようにも見える。奥にスカイツリー
スクリーンのうらがわ

 多角形や楕円形が組み合わされた3つの分棟は、2、3、4階が空中を躍動する8つのブリッジによって連結され、また施設内のほとんどの場所はプラザに向かって開かれており、相互に横断的な関係と建築全体の視覚的に一体化している。

複数ブリッジの躍動
2階ブリッジ内部

 3つ子のようなブリッジが立面に連なり、わくわく感を演出したり、下から眺めるとまたおもしろかったりと、見る角度によって楽しませるブリッジの躍動。機能的にはそんなにブリッジはいらないだろうが、少しの移動で目の前の風景が変転する散策性は楽しい。立体的な濃度が高い。

ブリッジを横から見るアプローチ
上階からカフェレストランそれいゆサンサンを見下ろす

 床から天井までフルハイトで別棟やブリッジが眺められるので、空間の有機性がよく感じられる。どこに何があるかわかるようでわからない。どこでもすぐ行けるようでいけないところがある。透明なわかりやすさとわかりにくさ、散策の楽しさと立体関係のわかりやすさと到達しにくさ、さまざまな相反する要素が内包された多義的な空間である。

別棟の利用空間は視覚的に近く感じる一方で実際に到達するには回り込まなくてはならない

 そんな中で青い球のアートは一際目立ち回遊的な空間体験にアクセントを与えてくれる。建築空間におけるアートの価値について視座を与えてくれる存在だったかもしれない。

常設のアート
アートを室内から見る

空間の利用について

 『社会教育』という学会誌のようなものがあり、毎月コンパクトに社会教育について議論されてきているのかなと思い、職員の方に尋ねてみると、雑誌コーナーに設置していたものの残りだという返答。近くに大きな図書館ができたりすることや利用者の意見を反映して、雑誌コーナーは2019年に自習することもでき、談話やちょっとした作業も可能なフリースペースとなったという。1人用自習スペースもある。またジオメトリックな球形のプラネタリウムは老朽化によって機能を失い、大規模改修によって、4階の部屋数が増えたように竣工後ソフト面、ハード面で施設の新陳代謝があるようだった。

交流ラウンジの掲示(利用者が多かったため空間の撮影は控えた)

 掲示物のコーナーでは壁面のコルクボードのみに収まりきらない膨大な掲示物(写真右の棚も視点場後方に続いておりたくさんの掲示物が並べられていた)が置かれているのが目を引いた。後で確認すると、「情報センターでは、多様な活動の各レベルの人々に多様な情報を提供し、最適な場所へ導く文化・学習に関する相談活動にもコミュニケーション・ツールとしてのメディアの在り方と手法を提案した。」(『現代の建築家 長谷川逸子2』鹿島出版会)と記されており、単一の建築で界隈のアクティビティをすべて引き受けることの限界を的確に認識し、施設、情報・活動の各種のネットワークの活動を張り巡らせる賢明さが育ち、継続されていることがよくわかる。

 当日、メディアコーナーで調べ物するおじいさん、マリンバの練習会、音楽サークルの練習帰りの中年の男女、カフェレストランで働くお母さんたち、お客さんたちがいて、外国人の高校生たちが何らかの学習で利用(体操服を着ていた)していたりもした。そうした人の差異、振る舞いの差異が交差するブリッジによって分棟を横断的に可視化されこすれあい、人々の多様な興味のアンテナが接触することによって、人々の交流と新しい活動への触発が可能となっているのかもしれない。(じっさいに別の人の振る舞いに積極的に参加したという話は聞かなかった)

膨大な掲示物のコーナー(20230630)

 また意外な使われ方としては、廃止となったプラネタリウムで、球体の曲面を生かしてヨガ体操をするというイベントをアップデートアーキテクツが行っていたことだろうか。https://sumiyume.jp/event/1637/

2つの建築を比較して

 湘南台文化センターは、パンチングメタルを木や雲などの自然要素を模した形状に加工し敷地いっぱいに配置されており、子どもが親しみやすい工夫がされていることがわかった。ユートリアはブリッジやパンチングメタルのスクリーンなど建築の空間要素を張り巡らせ、アート作品を回遊性の中にうまく組み込むことで大人でも空間体験を楽しめる工夫がされていたことがわかった。湘南台文化センターでは大人は楽しめないということではなく、底抜けの造形意識に圧倒されるし、公共性の高い使われ方がされていたことは前述したとおりである。

 それぞれの施設の運営上の課題を指摘するとしたら、湘南台文化センターでコインロッカーはあるかと聞いた際に「ありません」と即答した職員がいたことだろうか。その人に聞くのは諦めて少し探したら見つかったので、もう少し施設や建築への理解度を上げて利用者をおもてなすような態度があれば、より良い施設であると言えそうだと感じた。ユートリアに関しては、生涯学習センターとして催事のアーカイブがなされていないことが課題なのではないかと感じた。当日自分は夜行バスに乗って東京に来て、汗びっしょり、クッタクタの顔で、パソコンコーナーの利用と施設内を徘徊で1時間半過ごした後に、「この建物で意外な使われ方がされたことはありますか」という突然の質問に、「詳しくは把握できていないのですが…」としつつも20分ほどかけて丁寧に対応してくださったことはありがった。

疑問点

・生涯学習という言葉はいつ登場したか
・未来のコミュニケーションが受け継がれてゆく場としての建築はいかにして可能なのか、テクノロジカルなメカニズムはあるのか

まとめ

 建築空間が場として形成され、時間を積み重ねる過程を観察することを試みた。単一視点で捉え切ることが難しいため、複数の視点を用いて観察し、詳しく知ろうとする姿勢を大事にした。その結果、建築意匠、芸術分野のおさらい、教育、社会教育(公民館は社会教育施設として分類されている)と複数の分野の視点から本稿を記述することとなった。

ユートリア1階のカフェレストランそれいゆサンサンで食べた日替わり定食のアジフライ定食650円

参考文献:

『現代建築ポスト・モダン以後』松葉一清.鹿島出版会.1991
『海と自然と建築と』長谷川逸子.相国社.2012
『現代の建築家 長谷川逸子』鹿島出版会.1985
『現代の建築家 長谷川逸子2』鹿島出版会.1997
『ガランドウと原っぱのディテール』長谷川逸子.相国社.2004


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