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【長編小説】漂白剤社会 | 第九話・動機

第八話・純白 | このお話のマガジンはこちら | 第十話・手紙

 奈恵はリビングの掃除をしていた。セミの声がとてもよく響いた、そんな夏の昼時。突然、仕事中の夫が早退して帰ってきた。

 何かあったのかと驚き、奈恵は急いでドアを開けた。

「おかえり、早いね、どうしたの?」
夫に声をかけた。返事はない。

私はどこか体調が悪くて早退したのだと思った。心配して夫の顔をのぞくと真っ青になって、無気力な姿があった。

「どうしたの?」
思わず高い声が出た。

何も言わない夫に、何かあるなら話してほしいと問いかけると、急に、玄関に座り込み頭を下げた。

「お母さんの脚が、無くなるかもしれない」
夫は重い口を開いた。

 夫は外国人で、病気の義母は母国にいる。その義母の容態がとても良くない。病気で働けなくなってから数年、生活費も底を尽き、ご飯も食べられない状況だという。

 必死に話す夫の足元が、あっという間に、涙で水たまりのようになった。元々、夫は、望んで日本に来たわけではなかった。むしろ日本がどんな国で、どんな言葉を話すのかさえ知らなかったのだ。

 夫の母国は、今でも過激派によるテロや紛争が起きている。

失業率も高く、日本のような医療保険制度もないため、満足な医療が受けられず家族も失い、困窮している人も少なくない。

 また夫の叔父は、政府関係者であった。そのため、夫は中流家庭で育ち、大学にも進学した。

何不自由なく暮らしていたが、皮肉にも政府関係者だったことから、過激派組織に狙われ、突然、家族団欒を襲撃されたのだ。

命からがら夫と母は逃げたが、父と弟は目の前で殺された。その影響か、今でも夫は紛争のニュース画面が観れない。観ると、途端に顔色が悪くなり、吐き気を催してしまう。

 叔父はせめて夫だけでも逃げてほしいと、第三国へ出国させる手配をとった。そこで最初に渡航の許可が降りたのが、日本だった。最初に許可が降りたのが日本でなかったら、別の国に行っていただろう。そう夫は過去の出来事をはなしてくれた。

その後、夫は日本に助けを求めて、《難民》となった。

夫は父や弟だけではなく、母も助けられなかったら、自分だけ生きていくのは苦しいと何度も私に訴えた。

 この時、新型コロナの影響もあり、私達はお金が無く、家賃が支払えていなかった。それどころか、満足な食費さえこと欠いていた。

医療保険のない母国の手術代は百万円を超える。そんなお金なんて、私たちには到底、用意できなかった。


 私は咄嗟に、服を着替えた。

「どこ行くの?」
夫が不安そうに聞く。

私は夫を抱きしめた。

「お義母さんのこと、少し考えたいから、外に出て来るね」
私は、そう言い残して、家を出た。

 外に出たのはいいが、どうすればいいのか分からなかった。
ふと横を見ると、蜂が飛んでいた。涙がぽろっと落ちる。

 やっと手に入れた幸せ。いつか海外にいる義母に会おう。そう思って、貧乏な生活も耐え忍んできたのは、かけがえのない希望があったからだ。その希望が、音を立てて崩れていく。

こうして立ちすくんでいる間にも、義母は、今とても不安な気持ちだろう。そう思うと胸が締め付けられた。

 私は色々な案を考えた。私の両親に頼ることも当然考えたが、両親は自己破産をしたばかりで余裕がなかった。お金がないものはない。ただ余計な心配をかけるだけである。私は頭を抱えた。

流れる風は、そよ風のはずが、私の頬を冷たく叩いているように感じた。

 泣いていても、お金は空から降ってこない。涙をぬぐって上を向いた。空を見上げると、太陽が眩しくて一瞬、手をかざした。その瞬間、太陽に反射して腕にキラっと光るものを感じた。
それは、タレントの仕事で借りた、ブランドのブレスレットだった。

「このブランドものを質に入れたら、お金が用意できるかも」

ただそれは絶対にしてはいけない犯罪行為だった。

 私は、思い詰めたように、腕に身に付けているブランド品をまじまじと見つめる。このブランド品は私の所有物ではない。

これを勝手に売るという事は、人の財産を奪うことであり犯罪である。

 私の額に冷や汗がどっと溢れ出す。
汗を手で拭うと、写真で見た義母の顔と、いつか電話口で話した優しい声を思い出した。

「あなたは私の娘同然。ありがとう、いつか必ず会いましょう、あなたが大好きです」

夫も義母も、私のDVによる精神疾患を理解してくれた。

私はそんな義母や夫が、心から大好きだった。
お義母さんの脚が無くなれば、もっと生活は困窮するはずだ。義母が困窮した後、間違いなく、そのしわ寄せは私たちに来るはずなのは明白だった。

ここで食い止めなければ、本当に未来は終わってしまう。そんな焦りが私にはあった。これ以上、困窮してしまったら、義母は餓死してしまうのでは…そう恐怖に思ってしまうのには理由があった。

私はこの時、義母の他に、ある出来事も思い出していた。


 奈恵の幼少期は決して裕福な家庭ではなかった。

 いつも両親はお金のことで人に頭を下げる人生だった。私も人生の大半だった貧困生活の中でたくさんの人に頭を下げたが、誰も助けてはくれなかった。食費が足りなくて、昔、遊んでくれた親戚の叔母さんに電話をかけ、頭を下げたこともある。

「叔母さん、ご飯が食べたい…」

「明日まで考えさせてね」
電話口の叔母さんは、優しい声でそう言った。

 翌朝、叔母さんに再度、連絡をすると、私の電話番号はブロックされていた。

子ども心に私は痛感した。
誰も助けてくれない。誰も。


 きっと今日や明日、私が餓死したとしても誰も気にも留めないだろう。

死んだ後は「可哀そうだね」その言葉だけで、今、現在、目の前にいる困った人に手を差し伸べようとする人たちはどのくらいいるのだろうか。

 私の両親は必死には働いても裕福になれない。ご飯が食べられないくらい微々たる給料でも、税金は凄まじく取り立てる。

 ほら、役所に行っても門前払いだったじゃないか。私は、昔のたくさんの出来事を思い出し、怒りで心はパンクしそうだった。

その怒りの心は、被害者の尊厳が傷つくということさえ冷静な判断も出来ず、自分本位の黒い塊となってしまった。

この時、もう既に、怒りとともに迷いは消え去っていた。誰も助けてくれない痛みは、私が痛いほど知っている。そう自分に言い聞かせた。

 私は、自分のブレスレットを売ることに決めた。それが犯罪行為であるということは知っていたが、もう止められなかった。

「私が、お義母さんを助けるんだ」


「動機は分かりました」

宮本志津里と名乗る女性の刑事が、記録として書き続けている。

刑事は、私の瞳を真剣な眼差しでみる。それに応えるかのように私は、自身がしたことの詳細を話し続けた。

 

暗くて真っ黒な道を進んだのは他でもない自分自身である。

刑事は、長い調書を書き終えると、全てを私に見せた。

「何か間違っているところはない?」

「…ないです」

刑事は内線を使い、取調べが終わったことを知らせた。

「宮本さん、戻ります」
女性の留置官が取調室まで迎えに来た。

私は再度、手錠をかけられて椅子から立ち上がった。そうすると、刑事がこんなことを言った。

「奈恵さん、勘違いしないで、私はあなたを助けにきたの」

私は意味が分からず、茫然と志津里を見つめると、志津里は最後にこう言った。

「いつかの下北沢の駅で」

そう言って奈恵の左手首を指さした。

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