95.人間って、酷いけど、残酷な生きものでないことを証明してくれたような気がする。
人生はまだまだ楽しい
つい最近、体罰の事件があった。
体罰は良いのか?
悪いのか?
愛情のある体罰は良い、愛情のない体罰はいけない・・、そんな議論を醸し出しているが、苛めを受けて自殺に追いやられた子どもに対して、随分とおかしな議論だと思うのは私だけだろうか。
人が体罰によって自殺し、それを放置していた親、教師、教育委員会、そして、それを見ていた同級生たちの責任はどうなのだろう?
テレビのインタビューでは、その学校の生徒たちが「先生たちを尊敬している、愛情のある体罰ならかまわない」という意見を述べていたが、この国は一体どうなってしまうのだろう・・。
インタビューに答えた子どもたちは、同級生が自殺したことにショックはないのだろうか?親や教師が子どもたちにそう教えているのだろうか?何よりも愛情を持って接している教師は本当にいるのだろうか?
父や母がいないため、私が父親代わりとして面倒を見てきた女の子がいました。小学校の頃、彼女は随分と陰湿な苛めに遭った。いくら先生に相談しても一向にらちがあかず、動いてくれない。陰湿な苛めの場合、具体的な証拠がないからだ。どうしようもなくて、彼女は私に相談してきたのであろう。
苛める子どもの共通点は頭が良いこと。
先生や親、人前では良い子を振る舞っていること。
だから誰も気づかないのだ。
教師に訴えてもらちがあかないので、私は彼女を連れて学校に出向き、休み時間を見計らってその苛めた子どもに会って脅かすことにした。
なぜ脅かしたかというと、二度と苛めをさせないためだ。このようなタイプは知能犯で性質(たち)が悪い。その子が傷つく事は承知だったが、私は面前で思いっきり怒鳴った。大人気ないのはわかっていたが、そうしないと彼女だけでなく、他の子どもたちも苦み続けなければならなくなるからだ。
その後しばらくして、その子の親が「子ども同士の争いに親が介入するのはおかしい、ましてや、あなたは他人じゃあないか、私の娘が傷つけられた」と、私のところに怒鳴り込んできたので、私はさらに怒鳴り返した。
私はこの時、学校側が生徒たちの苦境を真摯に受け止めず、そのまま放置していたことに憤りを感じていた。子ども同士の問題に親が介入してはならないという風潮はあるが、これは現代の教育に問題がある。
子どもたちが苦しみを訴えてきたら、親でも、その親が無理ならば兄弟、親戚、友人だっておかしくはない。他人であっても、どんどん介入して守るべきなのだ。親や外部からの介入で学校側が委縮してしまい、教育面に支障をきたすという事もあるが、子どもたちを育むべき学校教育が、すでに崩壊しているに過ぎない。
©NPО japan copyright association Hiroaki
友恵ちゃんに与えられた使命、与えられた時間。
広島県の中学校で起こった実話を以下に記したい。
(ただ情報が明確でないため、私の考えも同時進行している。)
この中学校では、毎年恒例の全校水泳リレー競争の日が近づき、今年も各クラス5名の選手が選ばれることになった。そのクラスでは選手4名は決まったが、あと1人足りない。
クラスに友恵ちゃんという女の子がいた。
「そうや、友恵が出たらいいのや!」という声が上がり、何人かの男の子たちが「そうや、そうや!」といい、5人目の選手に友恵ちゃんが選ばれた。
友恵ちゃんは「どうして私なの?」と感じつつ、返事ができぬまま家に帰った。
友恵ちゃんは生まれつき足が不自由で、歩くときはびっこを引いている。
家に帰った友恵ちゃんは、「わたし、どうしたらいいの?」と、涙ながらにお母さんに話したが、お母さんは「そうなの。なら、頑張りなさい」と言うだけだった。
私はどうしたらいいのだろう…。
泳ぐ自信などないし、断ることもできない…。
友恵ちゃんは、その晩、仏壇の前で手を合わせるお母さんの姿を襖の隙間から見ていた。
いよいよ、リレーの日が来た。
8クラスある中で、友恵ちゃんのクラスは健闘して二番目だった。
そして、最終ランナーとして友恵ちゃんの番が回ってきた。
友恵ちゃんの頭の中は真っ白だった。
頼るものはなく、一人ぼっち。
目の前には水面が迫ってくる。
怖い……。
「えい!」友恵ちゃんは勇気をふりしぼって水面に飛び込んだ。
しかし、当然のことだが、他のクラスの選手たちに追い抜かれていく。
必死に泳いだが、足が不自由だから思うように進めない。
他の選手は皆ゴールして、プールにはもう誰もいない。
プールサイドから笑いや野次、冷やかしの声が飛び交っている。
しかし、それでも友恵ちゃんは必死に泳ぎ続けた。
そんな中、突然スーツを着た男性がプールに飛び込んだ。
男性は友恵ちゃんと並び、「頑張れ!もう少しだ!」と声をかけ続けた。
「頑張れ!頑張れ!」
何が起きたのか誰にもわからなかったが、そのかけ声が飛び交っていた野次や嘲笑が消した。
プールサイドには、友恵ちゃんと男性の二人が泳ぐ水音と、「頑張れ!」という声だけが響き渡っていた。
着衣のままプールに飛び込んだその男性は、校長先生だった。
友恵ちゃんが、校長先生と一緒にゴールにたどり着いた時、それを見ていた生徒たちから一斉に大きな拍手と歓声が上がったという。
友恵ちゃんに与えられた使命、与えられた時間。
お母さんの、「なら、頑張りなさい」の一言。
手助けをするわけでも、気の利いた助言をするでもなく、ただ祈る。
お母さんは、いつの日か友恵ちゃんが自力で生きていけることを祈っていたのではないだろうか。そして、その想いを友恵ちゃんも受け取っていたのだろう。
我を忘れてプールに飛び込んだ校長先生は、教師として、一人の人間として、友恵ちゃんの姿に突き動かされるものがあったのだろう。もしかしたら、自分の姿を投影していたのかもしれない。
人間はまだまだ捨てたものではない・・。
このお話しは、人間は残酷な生きものでないことを証明してくれたような気がする。
©Social YES Research Institute / coucou
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私自身も、子どもの頃に友恵ちゃんと同じような辛い体験があったから、今の自分を校長先生の行動に重ね合わせ、あの時の自分と一緒に泳いだのかもしれない・・。
ただ、残念ながら、私の場合、生徒も先生も笑っていた…。
あの時の私の行動は間違っていたかもしれない。しかし、人は人を差別し、虐げてはならず、自分で自分を救わなければならない時もあるのだ・・だから、私は間違えていても良いと想っている。
だから、みんな死なないでほしい…。
学校なんて、やめてもかまわない…。
勉強なんて、どうでもいい…。
怖ければ、逃げてもいい…。
あなたたちは大切な、大切ないのち。
せめて、せめて生きていてほしい…。
だって、人生はまだまだ楽しいのだから。
coucouです!本日で75作、もうすぐnoteデビュー3か月目。あと少しでreal story 「YES short story」100作品となります。日々、仕事をしながら毎朝早くにnoteを書き続けています。みなさんが、過去の作品も読んでくれてとても嬉しく思います。
みんな、ありがとう!
また、明日ね!
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