見出し画像

読書や小説に対する思いを書いてたら3,000字になったので読んでくれ

文章を書くとき、今はnoteというプラットフォームを使っている。今はnoteがあるだけで、べつにはてなブログでもいいが、「なんとなくで使いやすい」というのが大事。noteよりも使いやすい、なんてものがあったらそっちに乗り移る予定である。

しかし、文章を書くとき苦手なことがある。それは自分の思想を書くときである。もっとわかりやすくいえば「なにが好き」で「なにが嫌い」かをテーマにしたときだ。好きなものを語るのは幾分大好きだけど、嫌いだと思っているものはわざわざ文章に書き起こしてまでnoteに投稿しようと思わない。ストレスになってしまうから。好きなものはとことんと語ってしまうのは誰しもそう。一昨日は「なぜ僕はハンマー投げが好きか」という思いをつらつらと書いた奇妙奇天烈な記事を投稿した。


好きな物や推しの話している方が人は活き活きする。僕も自分の好きな物の話になるとヲタク特有の早口になってしまう。ヲタク特有の早口って実は今になって理にかなってて、動画サイトを1.5倍速にして視聴するのに耳が慣れている場合、実はゆっくり喋るより1.5倍速にして喋ったら意外と効果あるのではと思ってしまう。

僕はジャンル問わず、本はなんでも読むタイプである。人が書いた文章が好きだ。ただ本を読んでいただけのイチ読者が今となってはnoteにまで手を出して自分でも文章を書くようになった。

さて、過日、2023年下半期の芥川賞受賞作品が発表された。九段理江『東京都同情塔』という作品が受賞した。僕も昨日読み終わったところで、拙いながらも感想文を投稿した。

(僕はAmazonアソシエイト非参加者なので気軽にリンク踏んでください)

2030年の東京を舞台に、「東京都同情塔」という新しい刑務所が建てられ、その塔を設計した女性建築家のお話である。

ところが過日のライブドアニュースの見出し記事に驚いた人も多いのではないだろうか。

実際に作品を読んだから言えることだが、この記事の見出し、ものすごくミスリードしている。(チャットGPTを駆使し)「5%くらい文章そのまま」という文言が独り歩きしたこともあり、「ChatGPTを使って書いた本が芥川賞か」や「AIが書いた文章なんて誰が読むか」というコメントがちらほら見受けられた。

『東京都同情塔』のようなChatGPTによって書かれた小説でも、アイドルが書いた小説でも、なんでもいいが、まずはどういう作品かを読んでみてから評論するなり批評をして、各々の素直な感想を聞きたいところである。どの作品でもそうである。

今回の芥川賞受賞作『東京都同情塔』におけるChatGPTを使用していることの是非と「AIによって書かれた小説」は別の問題として考えなければならない。大前提に芥川賞に本当にChatGPTで書かれた文章をそのままに使用した作品が受賞するようなもんなら、文学賞としてプライドやバリューにも傷つくのと、受賞していることから純文学として遜色ないおもしろい作品として担保されているのは間違いない。

『東京都同情塔』において、ChatGPTを使用して執筆したと言及されていたが、実際に使用したとされているのは、作品中に登場する「AI-built」の文章のことだと思われる。全体のほとんどは作家が書いている文章だということは読めばわかった。決して地の文にわからないような形で紛れ込ませたわけではないということを。

作品の内容からして生成AIが登場するからそういう意図でChatGPTを使ったんだなと。ここまでは理解している人も多いようである。なので、あとは『東京都同情塔』を読んだ各々がどのように感じたか、読者の忌憚のない感想や思いに託しこの話は終わりにする。

さて、この芥川賞受賞作品が発表されてから一連のニュースに端を発してから僕も実際に手に取って読んでわかったことがある。

生成AIには小説は書けない。

そんな仮説をたててみる。

ChatGPTで生成された文章は作家が思う「おもしろい文章」にはならないと思う。舞台設定、人物像、情景、心情をChatGPTを始めとするAIにそれができるのならぜひお目にかかりたいところである。実際に僕も自分でショートショートを書いてみてわかったのは、1つの作品に思いを託し、思いを込めて書いた物語を、AIがいとも簡単に描くのは悲しくなる。ということだ。

とはいえ、いずれ全編AIで書きました!という小説が出てくるかもしれない。また人間が書いたのと遜色のない出来上がりになる時代もくるであろう。

でもやはり思うのは、生成AIが作家や読者が納得するおもしろい文章を勝手に書いてくれるとは到底おもえないのである。生成AIによって書かれた小説でも「おもしろければいいじゃん」という人がいるのはそれはそれでいい。別に生成AIによって書かれた小説そのものであったり、それを好んで読む人を糾弾したり、裁きたいわけではない。物事には絶対的に正しいも一方的に悪いも、当然のことながらない。ただ生成AIによって書かれた小説をおもしろいと思うのはそもそも「創作物」に対する考え方が根本的に違うと思っている。

小説には舞台設定、人物設定、情報、心情、もちろんストーリーも含めて、全編通して作品に対して作家の託した思いが込められているものである。それを読み解くのが僕は好きである。仰々しい言い方をしたが、「この一文に対する作者の気持ちを答えなさい」という現代文の問いに対して、僕はどの作品にも答えを見つけようとしているのである。

あとはそれぞれの作家によって文体や世界観を味わうというのも醍醐味である。

・現実と虚構のはざまを描く安部公房
・美学を追求する三島由紀夫
・現実とSFを融合させる森見登美彦
・静謐な世界観を描く小川洋子
・美術とミステリーを融合した原田マハ
・女性心理を巧みに描く柚木麻子
・日常を穏やかに描く星新一

それぞれ、各々が思う作家の「こういうところが好き!」というのがあるだろう。

ちなみに、僕は最近『成瀬は天下を取りにいく』という小説を読んだ。

(僕はAmazonアソシエイト非参加者なので気軽にリンク踏んでください)

2020年、中2の夏休みの始まりに、幼馴染の成瀬がまた変なことを言い出した。
コロナ禍に閉店を控える西武大津店に毎日通い、中継に映るというのだが……。

あらすじ

自由奔放な成瀬とその友だちの島崎のお話であるが、この作品に僕は何気ない一文に「エモいなぁ!」と感じたところがある。以下の一文は営業最終日を迎えた西武大津店で中継に映り終わった島崎の描写だ。

中継が終わってユニフォームを脱いだら、夏が終わった気がした。

宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』新潮社 2023年 Kindle版26ページ目

夏というのは日本人にとって重要な意味をもつ季節である。原爆、終戦といった戦争のイメージが付きまとう。本作に登場する西武大津店も、人々の生活を支え、家族や食卓に平和をもたらした象徴であった。そんな平和な時代の終わりを告げることを、「ユニフォームを脱ぐ」というキャラクターの動作の完了をもって、平和の終わりの感慨を作家は「夏」という季節に思いを託したのだ。

こんな短い一文に対して「そんなの考えすぎ」と言われたらそれまでだが、そう僕が感じてしまうほどに作家のありありとした思いが伝わってくるのである。

こういうことを考えながら小説を読むのって楽しい。小説を読んでいて「ChatGPTが書いたかもしれない」という想定が入り込むのは少々邪魔に感じるのは嫌なところ。(結局これが一番の理由だろう)

もう一度言うがChatGPTによって書かれた文章がダメだといっているのではない。むしろ別にそこを問題にしているのではない。自分の感性をくすぐる、そんな文章を書く作家の思いに共感してみようじゃないか。その方がより自分の感性を豊かにしてくれるものだと思う。「好き」か「嫌い」かの両極端の二元論で語るものではなく、僕が読書へ対する思いを綴ったまでである。

この記事が参加している募集

よかったらサポートもしていただければ嬉しいです!いただいたサポートは読書に充てたいと思います!