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【小説】「夜の街の片隅で」(前編)

3月の中頃の13:00、僕は京王線の明大前駅で少し微睡んでいた。桜の蕾が少し顔を出し、ひねもすのたり、春風が滝のように僕の体をつきさし、春のそよめきが聞こえてきた。地面から伝わってくる感覚が柔らかい。自分の体が少しだけ浮いている日だった。耳元で僕はあいみょんを流しながら大学時代の友だちの石田を待っていた。卒業してから連絡はとっていたし、Zoomで定期的に顔合わせしていたが、直接会うのは卒業してから初めての日であった。石田と会うまでに平成から令和にかわり、『進撃の巨人』は完結し、『キングダム』も67巻まで出ていた。(コロナでみんながマスクする生活は予想できていなかった。)

約束の時間から10分くらいすぎただろうか。遠くから石田がやってくるのが見えた。黒のパンツに白のシャツ。大人しめの服装ときっちりと決まったメガネをした石田は、幾年の春を通りすぎても昔のことを思い出す。待ち合わせの時間より少し遅れてやってきた石田は
「ごきげんよう」
と一言だけ言った。遅れてやってきたことを悪びれる様子もなく、刹那に挨拶を終えた。見た目は役所の福祉課にいそうな身なりをしているが、何ものにも束縛をされない、春風駘蕩に生きているのが石田だ。彼はたしか特別支援学校の先生として働いているはずだ。
久しぶりに会う石田と懐かしむ暇もなく「お昼食べない?」と言うので歩きながらお店を探した。つづら折りな路地の途中にあった古びた喫茶店に入った。
カランコロン
「いらっしゃいませー。」
老婆の腑抜けな声とともに窓際の席に案内される。メニューを開き、各々食べたいものを注文する。石田はナポリタンを注文した。

数分後、ナポリタンが届きゆっくりと口に運ぶ。
「よくある味だ。でも量多いなぁ。」
忌憚のないことを言うのは大学時代からそうだったが、石田のように、飯が多いのを嫌とする人がいるのを初めて知った。けれん味のない石田の発言は相変わらずだった。LINEの送信取り消し機能で発言はなかったようにできるけど、僕と石田のやりとりに取り消しはできない。今石田はたしかに「量が多いなぁ」と言った。日常の空間が生んだリアルな会話に取り消し機能はない。僕はそのナポリタンを少し分けてもらった。ケチャップのたしかな味が舌の上を踊るが、食べログの評価でいえば星2.5といったところだ。飲食店で不味い食事を出すことは絶対にないのは贅言を要さないが、甲乙つけ難い平凡な味という料理があるのも初めてだ。

食後に僕と石田はアイスコーヒーを注文した。少しずつ飲みながら他愛のない雑談を楽しんでいた。窓際から春光がさし、アイスコーヒーが少し温くなっていた。のどかにゆったりとした店内でカラン、という氷の落ちる音が聞こえる。石田は窓際の遠くを見つめ、物思いに耽っていた。
「このあとどうする?」
と言うので
「じゃあ、ここの近くにシーシャカフェあるから行かない?」と誘った。タバコを吸うわけではない彼にいわゆる水タバコを吸わせようとしている。
「いいね。行こうか」とあっさりとした返事に僕は拍子抜けした。水タバコというものを知ってたのも意外だった。

店を出たときには15:00をまわっていただろうか。若干の西日が背中を燃やすのを感じた。振り返ると、僕の後ろを歩く石田と、西日に照らされた無機質な建物とその間をわたる電線が黒く浮かび上がっていた。学生時代、石田と過ごした明大前には来る者拒まずといった街並みが残っているのを感じた。街並みは変わってないが、僕と石田との間にはたしかな時の流れがあった。

元来た道を戻り、Googleマップを見ながら歩き、店にたどり着いた。最近できたお店なのか、外観はとても綺麗だった。お店に入ると、自然光にあふれた店内に、観葉植物が立ち並んで非常に落ち着く空間だ。チャットモンチー橋本絵莉子似のゆるふわボブの女性とシシドカフカ似のかっこいい女性店員がいた。席に座った僕たちは、ゆるふわボブの方の女性店員から説明を受ける。
「あのぅ、今日はとても混みやすい日でして、もしシーシャが死んだらフレーバーの注文をお願いしております」
と、店内のBGMに負けそうなものすごい小さな声だったので全集中で耳をすませた。なんとか聞き取った僕は
「わかりました!その時になったら声掛けてください」
と言う。"シーシャが死んだら”って、シーシャが"死ぬ”と言うのだろうか。おそらくシーシャを吸うのに使う炭が燃え尽きることを言っているのだろう。「混みやすい日」と言う割には店内にいた客は僕たちともう1組のカップルしかいなかった。店員さんに言われるがまま、オススメのフレーバーを注文し、到着まで石田と昔を懐かしむかのように話が弾んでいた。
「石田って、シーシャ初めて?」
「うん」
「タバコと違って肺には入れずに口の中で香りを楽しむものだから、肺に入れるとむせるよ」
「タバコは肺に入れても大丈夫みたいな言い方するな」
「かの宇多田ヒカルだって"最後のキスはタバコのフレーバーがした”って言ってるんだからタバコは純文学なんだよ」
「純文学をなんだと思ってるの」
「当時16歳だった宇多田ヒカルがこんな歌詞書ける?タバコのフレーバーなんてわかるはずないじゃん。時代が違えばやってることは迷惑系YouTuberと一緒だよ。それを宇多田ヒカルは切ない恋の終わりとして描いたんだよ」
「だから純文学なのか」
「そう」
人を好きになったことがある人すべてに刺さる宇多田ヒカルのfirst loveを、石田は興味を示さなかった。

しばらくするとシーシャが届いた。さっそく吸った。久しぶりに吸ったシーシャは少し甘かった。2回、3回と吸って石田に渡して石田も2回、3回と吸ったあと
「うん。良い」
とボソッと言った。なんとなくだけど、僕と石田は多くを語らずに通じ合える仲であると常々感じていた。たとえ地理的に遠い距離にいても、たとえ定期的に会っていたとしても、僕たちはどこかで通じ合える仲にいたのだと、実感する。しばらくすると店内にいたカップルが店を出ていき、店内には僕たち(と店員さん)だけになった。すると、僕と石田には無言の時間が続いた。僕は石田だったら無言の時間が続いても何とも思わないと思っていたが、今日という日は緊張していた。心理的な隔たりは感じていないと思っていたが、こうなってしまうのは時間の隔たりがそうさせてしまったのかと思った。そうだとしたらこの謎の緊張感に説明がつく。

そんな緊張感が漂う店内にいる石田の顔には少しばかりの物憂げな表情がみえた。
「あのさ」
と石田が急に口を開いた。
僕は嫌な予感がした。人間、疲れている時、お酒を飲んだ時、リラックスしている時に本性が現れやすいとわかっていたからだ。
「なに?」
と、僕は固唾を呑んで石田の方を見た。
「俺、3月いっぱいで今の仕事やめるんだよね」
突然のことに僕は一瞬何を言っているのだろうと思った。微風に吹かれたシーシャの煙が目に入る。一方、石田は風向きが変わって煙を浴びても動じず店内の奥の方に目をやっている。
「たしか学校の先生やってるんじゃなかったっけ?」
「そう。まぁ、特別支援学校なんだけどね。3月いっぱいと言ってももう3学期が終わったから、実質もう辞めたようなもんだけどね」
卒業してから定期的に連絡はとっていたものの、お互い仕事の話をすることはなかった。5秒くらいの沈黙ののち
「そう……」
と、ようやく捻り出した言葉で返事した。店内には真っ赤に染まる夕暮れが僕たちの顔を照らしていた。シーシャと一緒に注入したレモンティーが少しニガい。
「子どもを楽しませようと思ってこの仕事にしたんだけど、なんかさ、子どもたちと接していくうちに、自分が自分じゃなくなるような気がして」
と、石田らしからぬことを言った。
「ノイローゼってやつだな」
「最近俳優さんや女優さんが自殺するニュース多いじゃん。遺書とか見つかってない限り、自殺の動機は本人しかわからないけど、今の俺ならすごいわかる気がする」
どんなに豊かで平和で分断のない世界だったとしても、石田本人の心にはたしかな分断があるように感じた。石田の心には不思議な出来事が無限に詰まっていて、僕の知らない石田ばかりになっていた。世界の片隅で孤独に闘っている石田を初めて見た。僕は見ていられなくなってしまった。大人になっても解放されない苦しみがあって、大人になった僕たちは抗い続いていかなければならないことをここで思い知る。巨大すぎる人生が、漠然とした時間が、どうしようもなく横たわっていた。とてもじゃないけどシーシャ吸いながら聞くに堪へ難き話を聞いた僕は俯くしかできなかった。

「これからどうしていきたい?」
と僕は恐る恐る聞いた。あくまで平静を装いながら。
「わからない。しばらくは貯金と失業保険でゆっくりするよ」
「ふ〜ん。そう」
その"しばらく”という漠然とした期間が、焦燥感に駆られて先の見通しができていない様子を意味していた。僕は何か淡い寂寥感に駆られつつ、忘れかけていたシーシャに手を伸ばして今度は思いっきり吸った。天井に吐いた白煙を見つめながら次に言う一言を考えていた。一瞬の時がとても長く感じた。将来に期待した生き方のほうが人生の長いスパンで考えれば楽なのだが、退屈な生活は毒である。石田は本当にそれでいいのだろうか。大変な決断だったと思うけど、自分の進むべき道を選ぶ勇気を持てたことに尊敬を感じる。だから石田のその決断は否定することはできない。

「なんだよ暗い顔して。やめよう」
「あぁ、ごめん」
「俺より逆に思い詰める必要ないぞ」
なぜか僕の方が励まされる結果となって少し気恥しさがある。これからの生活を何も考えてない石田に心を踊らされてしまった。

時計をみると18:00をすぎていた。
「そろそろ出ようか」
「そうね」
僕たちはお店を出た。
春の寒さが僕の肌を突き刺した。とても痛く、苦しい。僕はまだ石田と別れたくなかった。ここで別れたら石田が遠くに行ってしまうんではないかと思った。
「まだ時間ある?」
「うん」
「コンビニでお酒買って公園でも飲もうよ」
「うん」
僕は350mlの缶ビールを買った。夜の道をゆっくりと歩く。久しぶりに会った石田との時間をゆっくり味わいたく、わざとゆっくりあるいた。人気のない、僅かな街灯だけが照らす薄暗い公園に着いた。2人でブランコに座りながら
「乾杯」
と、囁かな宴が始まった。ここでも缶ビールは少しニガい味がした。うつらうつらとしていて不思議な気分だった。僕はまだ石田との間に悲しむべき厚い壁で隔てられている感じがした。ここで初めて今日という日が来なければよかったと後悔した。
「あのさ」
殺伐としたら雰囲気の中で石田が口を割った。
「お前って、有給って取ろうと思ったらすぐ取れる?」
「なんで?」
「いや、せっかく暇になったからどこか出かけようと思って。長野あたりに」
「なぜに長野?」
「何も無いところでゆっくりしたくない?」
「ほぅ」
平静を装っていたが、正直すごく心踊っていた。
「長野といったら…なに?」
「上高地とか?」
「上高地か…いいね。行くか」
こうして2人の旅行が決まった。僕はまだ350mlの缶ビールを握りしめたままだった。

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