久しぶりに帰る故郷は変わらず私を出迎える
久しぶりに実家に帰ってきた。埼玉から名古屋まで片道大体4時間。なんだかんだ長い道のりで、移動だけで一日が終わってしまう。
実家が近づくに連れ、思い出深い風景が目についた。友達との集合場所にしていた大きな木。ちょっと遠いが、ラインナップが不思議な安い自販機。ぼこっと曲がってしまったカーブミラー。ところどころ知らない飲食店が出来ていたり、公園の遊具が老朽化により撤去されていたが、概ね少年時代に走り回っていたときのそれと変わることはなく、しんみりとノスタルジックな気持ちになる。故郷がいつまでも同じであることは、なぜだか無性に嬉しくなるもので、これからも変わらずにいてほしいと思わずにいられない。
私が家についた頃にはとっくに日が落ち、ちょうど夕飯の時間だった。用意されていた来客用のスリッパを履いて、リビングへの扉を開けると、二匹の猫が遠くからこちらをじっと見ていた。
親は数年前に二匹の猫を保護したらしい。名前はクロとシロ。彼らは完全に私を「よそ者」だと認識しており、私を警戒している。
全く、新参者にナメられるなどあってはならんぞ。そう思ってクロを撫でようとすると、一目散に逃げていった。それを見たシロも逃げていった。蜘蛛の子を散らすようにとは正に今みたいな状況を言うのだろう。悲しい。
えぐえぐと泣いていると、母から「猫缶あげてみたら」と提案された。私は一本の蜘蛛の糸を手繰り寄せるカンダタのような気持ちで、冷蔵庫から猫缶を取り出した。頼む。出てこい。今度こそ我が家のヒエラルキーというものを思い知らせてやる。
猫缶を爪でカツンと鳴らすと、猫たちが私の足元に駆け寄り、ニャアニャア猫なで声を出した。ふん。最初からそうすればいいんだよ。そう思いながら猫たちに食べさせてあげて、存分に撫でた。物で釣るのはどんな時でも、有効な策である。
猫と戯れていると、夕飯が食卓に並んだ。実家の良いところは何もせずとも飯が出てくることだと思う。この有難みを久しく忘れていたが、学生時代どれだけ幸せだったかよくわかる。
皿洗いだって黙ってやってくれる。これこそが無償の愛というものだ。私にはまだ誰かのために、なんの見返りも求めずに皿洗いなんて出来ない。皿洗いは本当に頭おかしくなるほどの苦行なので、母には尊敬と感謝の入り交じる感情を抱かざるを得ない。流石にこの年になって家事を全部やってもらうのは気が引けるので、滞在中はなにか手伝ったり、ちょっといいものをプレゼントしようと思う。物で釣るのはどんな時でも、有効な策である。
こうして一緒に飯を食べていると、母の老化が節々に見えて少し悲しくなる。具体的に言えば、昔よりも食が細くなり、肉よりもさっぱりしたものばかりに箸が向いている。それになんだか、ぐったりしているように見える。
でも、それも仕方ないことかもしれない。私だって学生だったのが、今や一応働く社会人となっているわけだし、親だってどんどん老いていくのは当然だ。
故郷が変わらなくとも、人間はこうして変わっていくのかと思うと諸行無常の趣すら感じた。
一緒に飯を囲むのも、もう数えるほどしかないのかもしれない。
そんな事を考えていると、母に「お母さん、ちょっと痩せたことない?」と聞かれた。いや、別にと思った。
「最近、脂っこいもの控えてるの。運動もしてるんだから」
よくよく聞くと、今日はゴルフを1ラウンドしてきたらしい。私でも18ホール回らず、ハーフで済ますこともあるというのに。全然元気じゃん。そりゃぐったりもするはずだよ。
というか、だからさっきから肉を食っていなかったのか。なんだか心配して損した、と思ったと同時に、少し安心した。良かった。母は変わらず元気にやっているらしい。
「そんで、あんた結婚はどうなの」
安心していると、母は面倒な質問をぶつけてきた。いや、どうなのも何も、何かあったらこちらから話しているに決まっているじゃないか。この質問ほど不毛な問答はない。
「あんたもいい歳でしょ。〇〇くんいるじゃない? あの子とこの前偶然会ったんだけど、奥さんと赤ちゃん連れてたよ」
こんなお母さんのテンプレみたいな発言本当にあるんだなとむしろ感心した。どこかに『お母さん 入門』みたいな本が売っているんじゃないだろうか。
「この前言ってた〇〇ちゃんは? どうなったの?」
ここらへんでしっかりとめんどくさくなってきたので、「シュッシュッ、シュ、ウィ~w」と言いながら母の顔面スレスレで本格的なシャドーボクシングをすると、母がため息をつき「あんたは小学生の頃から変わんないね」と言っていた。
これからも変わらずにいようと思わずにはいられない。