本屋慕情
貧すれば鈍する。
わたしはこの夏、この言葉を知った。ある二種の出来事から。
お菓子と本。これらが教えてくれたのである。
1、お菓子を食べた。
わたしは日頃お菓子を食べない。ジュースも飲まない。コンビニに入るのは月に一度買うタバコを手にいれる時くらいだ。
この非美食性質はわたしのそもそもの嗜好というより、経験がつくったものだろう。わたしもサヴァランになれるならなりたかった。しかしその道を捨てることで、別のものを得ようとしたのだ。
心臓がヒリヒリするくらいお金に困った時期があった。
それ以前もお菓子やジュースを買うことは稀だった。が、その時期を境に、非美食性質は加速した。鹿島茂がどこかで、コレクターと美食家は両立しない。と言っていた。つづけてバルザックの「従兄弟ポンス」では両方を叶える主人公が描かれてるとも説明していた。
もちろんわたしにはその度量はなく、古本に金をかけるとを、——択一を選ばざるをえなかった。凡人たるわたしに、やはりコレクションと美食の両立は困難だったのだ。
金欠期以来、お菓子やジュースを目にするたびに色々なことを考えてしまう。これを買う人生と、買わない人生。今ジュースを飲んで、十年後の自分に何か残っているのか。今お菓子を食べて、死ぬ前に思い返して満足できるのか。
その結果、買わない。
そして自分にとって命より大切な本だけにお金を注いでしまうのだ。
しかし、年に数度、お菓子食べ放題のイベントがある。
祖父母の家への帰省である。
「お菓子は喜ぶ」という単純明快な公式を知っている祖母は、わたしのやってくるのに合わせて大量のお菓子を用意して待っていてくれている。
これは大正解だ。お菓子もジュースも正直好きだから。
この夏、祖父からお小遣い(現金)をもらえるということも失念していた。そのことも十分すぎるくらいに有難い孫労りなのだが、今年ばかりはなぜか、お小遣いについてはすっかり忘れて、頭の中はお菓子の家になっていた。
そして案の定、祖母はお菓子とジュースを大量に用意していた。
けれど、これが現実問題、大変なことだった。普段お菓子に慣れていないわたしの口に、お菓子は何か過剰なものを含んでいるらしく、二日目にして口にできものができてしまったのだ。
「もっと食べてや。あんた帰ったら食べる人いないんだから」
と滞在中、何度言われたことか。
けれど食べられないので申し訳ない。
グミを食べようにも、口の中に長時間甘みが残る感覚に違和感があり、一日に一袋も消費できない。
貧乏性はいざというとき自分の弱さを露呈させる。祖母はどこか不満足そうである。貧乏症はときに人に迷惑をかけるのだと、初めて知った。
これからは少しずつ、小さな贅沢からしよう。
「小さな倹約と小さな贅沢」
なんだか良さげな抱負をかかげて。
2、本屋へ行った。
息をするように古本屋へ行く。
これは冗談ではなく、あなたがいま空気を吸ったのに気づいてなかったみたいに、知らないうちに古本屋に入っていたりする。殊に三条付近をほっつき歩いているときは。
わたしの本たちとの生活は、まだ本と少し距離のある小学校時代から始まる。
母親から「本だけは何でも買ってあげる」と、ショッピングモールを訪れるたびに言われていた記憶。それは、わたしの本好きが高まりすぎて、ついに言われなくなったというオチつきなのだが。
自分で買い集めるようになったのは、高校に入ってからだ。この時期に関西中のブックオフをめぐり歩いていた。安くて有名な文豪や海外小説を片っ端から食い漁った。
ブックオフで手に入る本が尽きだしてからが、わたしの古本屋探索の事始めである。
時期的には大学に入ってすぐ。
バイトも始め、500円、1000円を超える本を買えるようになった。
とはいえ、買うのは基本的に200円前後のものばかりである。
古本屋巡りという趣味の中に「安く手に入れる」というものが美徳として存在している、とわたしは信じている。200円で手に入れたものを、別の店で150円で見つけた時など、膝から崩れ落ちる気分だ。
さらには、移動費も抑えたいのでできる限り電車は使わず、3時間、4時間と歩き続けることはザラである。
目的がコレクションなので、その他に金が流れると、血を流したように幻覚してしまうのだ。
この貧乏性から、いつからか新刊書店という存在が、わたしの頭の地図から消えていた。
このこともまたわたしの祖母を残念がらせるのである。
「どこか行きたい場所はあるか」
と聞かれる。
本屋しかないので、「本屋」と答える。
ちなみに和歌山の古本屋事情はかなり貧しい。大阪や京都と比べると、巡るということができないのだ。
なので、新刊書店へ連れて行ってもらう。
「本屋」なるものが、——その景色が、新刊の匂いが、小中学時代の自分の体の小ささと共に思い出される。
不思議なことに、まるで初めて外国に来た気分と数年来の懐かしの故郷に帰ってきた気分が同在していた。実際は、前回和歌山に来た時にも入ったから、一年も空いていない。が、この気分は何だろう。
ちなみにその前回では、
「買いたい本あったら言いや」と言われて、本の値段に悩みに悩み、結局一冊だけ安いのを買った。
今年は先手を打たれて、一冊持っていると、
「それだけか? 他に何冊か無いか」
と言われた。
しかし現実問題、これが大変なのである。
なにせ、久しぶりの本屋の世界、わたしは歩き方を忘れてしまったのである。
新刊価格に対する怯えだけでなく、その価格から逃げ続けた結果、本屋さんはわたしにとっての見知らぬ世界になってしまっていたのだ。
初めて古本屋に入った時、何を見ていいのやらわからなかった。
どの本を手に取っていいのやら、わからなかった。
全部が自分に関係のないものに思えて、選ぶ基準を持たないわたしは、博物館にでも来たみたいに後ろでをしながら一周して帰ったのである。
友人と古本屋に入った時も、友人は同じことを言った。
何を見ていいのか分からないと。
その頃には、わたしにもあったはずのその初心な感覚をすっかり忘れてしまい、
「好きな作家か、ジャンルの本を見たらいいのに」としか思わなかった。が、読書初心者の場合、そのいしずえがまだ築かれていないので、全てが河原の石みたく見えてしまうのである。
そしていま、その初心を、わたしは本屋さんで感じることになったのである。
新刊が並んでいると、何を見ていいのか、自分に興味があるものが、どこに何がどう並んでいるのか、分からないですっかり迷っていた。
結局、
『今夜すべてのバーで』中島らも 講談社文庫
『きょうはそういう感じじゃない』宮沢章夫 河出書房新社
『返らぬ日』吉屋信子 河出文庫
の三冊を買った。故人、故人、故人。何が新刊だ。
好きな本が買えたので嬉しいが、『きょうはそういう感じじゃない』は別として、やはり古本屋でも見つけられそうな本である。
本屋を歩けない自分。
新刊を選べない自分。
また一つ、禍根が残ってしまったのである。
後日談。
さて、京都へ戻ってきて二週間近くたった。
当分読書と離れていたが、最近再開し始めて、あることを思い出した。
本屋だ。
本屋へ行こう。
思い立ったが吉日なる古言に則り、わたしは家を出た。
京阪電車に乗り、祇園四条駅で降りる。丸善へ。河原町通を歩くのだが、わたしの記憶より二倍ほど遠かった。
さてこの本屋は、祖母に連れられたあの店より一回りも二回りも広い。
探索した感想は「何でもある」であり、「本屋というのは無くしてならないものだ」というものだった。
平積みされる書籍を眺めると、最近の世界が一目のうちに分かる。岩石薄片みたいに、一目でわかるように切り分けられているのだ。
古本屋では見たことのない本たち。
日常的に本屋に入るだけで賢くなるのでは、とさえ思った。
本の並び方、レパートリー、オススメされる本とそうでない本、独特な棚。
そのどれもが懐かしく新しい。
さて、ここで本を買おうと思うのだが、そうなると100円や200円ではないので、黙考し、買い惑い、逡巡する。適当な頁を開いてみて、数行読む。これだけのことから知れることも大量だ。そして自分を見直す。これは今の自分に必要な情報か。自分は今何を知りたいのだろう。
こうした深い本選びは久しぶりだった。
趣味で選ぶのではなく、内容で選ぶ。
収集対象ではなく、読書して何かを得る対象としての本。
これを逃せば出会えないかも、と思える本を買いたいと思った。
100分で名著シリーズの『林芙美子 放浪記』柚木麻子 NHK出版
『ポルトガル短編小説傑作選 よみがえるルーススの声』ルイ・ズィンク 黒島直俊編 現代企画室
『ボルヘス・エッセイ集』ホルヘ・ルイス・ボルヘス 木村榮一編訳 平凡社ライブラリー
以上三冊を買った。
まだ、自分の趣味に傾いている気がする。
がこれから、本屋で本を買う技術をも上達させたい。
何よりの変化は、三条近辺にいながら「今日は古本屋はいいか」と思いそのまま帰ったことである。
ひとつ、小さな倹約は達成されたのだ。
にゃー