たまには「今の自分」を褒めたらどうだろうか?
大人になると「自分への基準」が年を重ねるごとに、どんどん厳しくなる。
それは加速するジェットコースターのごとく、止まることがない。
社会人になったのだから。チームリーダーになったのだから。中間管理職になったのだから。
あれも出来て当たり前。これも出来て当たり前。
あれが出来ないのはあり得ない。
こんなこともできないのか。
こんな失敗はあり得ない。
僕たちはビジネスマンとして生きる年数が長くなるほどに、自分で自分の首を締め続けている。
まさに「意識高くなければいけない系」という呪いだ。
以前、こんな記事を書いた。自分に厳しく完璧主義になりがちな人は不幸になっていく。
自分のことを否定し続けるよりも、肯定してあげることも時には大切ではないだろうか。
社会は「承認欲求」で溢れているから「他人から褒められること」は望むものの、自分で自分を褒めない人が多いのではないだろうか。
窮屈。それは非常に窮屈だ。
昔の自分を思い出してみる
小学生の頃、「自分に責任がつくもの」は全て避けていた。その典型が球技の授業だ。
体育の日に「雨よ降れ」と願っていたタイプの小学生なのは間違いない。
筆者は当時、スポーツが大の苦手であった。(今でも得意ではない)
野球なら、「ボールよ!自分のところには飛んでくるな!」と心の中で叫んでいたし
サッカーなら、パスを受ける側になりたくないから、バックに下がって、ひたすらディフェンスをやってるフリをしてた。(動きと表情だけは良かった)
とにかく、「自分に順番が回ってこないように」、ごまかしごまかし、やり過ごす自分に慣れてしまっていたし、そんな自分を情けないなんて思ったことはなかった。
そんな少年時代を過ごしていたものだから、ある一定の青年になっても「責任から逃げるスタイル」は変わっていなかったと思う。
いつだって、とにかく「責任の矢面」には立ちたくなかったのだ。
ふとした時に感じた自分の成長を大切にする
あれから人並みの苦難や、適度な修羅場を体験してきたとは思っているが、人なんてそう簡単に変われるものじゃない。どこかで自分に言い訳をするようになった。
仕方ないのだ。他の人にできることが自分にはできないのだから。
なぜだろう。年を重ねるごとに自分に厳しくなる。年を重ねるごとに自分に自信がなくなっていく。
いつだって他人と比べる。できない自分を責める。まさに永遠のネガティブループ。
こんなネガティブループに陥る原因が、40代になってよく分かるようになった。
自分に厳しくなるのは自分を褒めていないから
殺意ほとばしる満員電車の中で、OLに肘打ちされたり、女子高生に足を踏みつけられたりする中で、ふと思った。(朝から散々だな)
『お前、けっこう頑張ってるよな』
なぜだか分からないが、ふと自分自身が頑張っていることを讃えたくなった。
『嫌なことから逃げてばかりだったお前が、責任の矢面に立つ仕事をやってるんだって?』
『ほとんどの人が先送りしてる、めんどくさいことを率先してやってるんだって?』
『問題が出たら、すぐにお客様のところに飛んでいけるって、すごくない?』
小学生の頃の自分と対話するように、「あの頃のお前からしたら、その成長、考えられないぜ」と、自分自身を褒めたたえてみた。
すると、心がスーっと楽になる感覚がした。まさに目から鱗。
自分の心を縛り付けていたのは、自分を認めない自分の弱さだったのだ。
自分に足りなかったものは「自分を褒める」ことだった
自分を褒めることは「自分に甘い」ということではないと思う。
それは自分だけに認められた、「自分を守る」という最善の方法なのは間違いない。
あの頃からの成長を考えたら、今の自分ってすごい。
よくこんな仕事をやってる。とても考えられない。
昔のお前なら、逃げ出していてもおかしくないのに。お前はよくやっているよ。
そう、今こそ自分を褒めよう。
今の日本社会に足りないのは「自分を褒め称える」という行為だ。
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