原家族での壮絶な人生VS児童養護施設ではどちらが良かったのだろう
わたしが生まれて間もない0歳のころ、私の両親は私を養育することができないという判断をし、児童養護施設に預ける方向で話を進めていたらしい。
養育することができないというのは、決して金銭的に貧しいといったやむを得ない事情ではない。両親の不仲によって、その間に生まれた私をこれ以上自分たちで育てたくないという父母双方のわがままによるものである。
だから養育を放棄できる児童養護施設に預けることで、父母ともに合意をしたらしい。
この事実を知ったのは2024年、私が35歳になってからのことだった。
物語に出てくるような話で、普通に育った人には信じてももらえないが、こんな親のもとでうまれ生きている子どもが世の中にはいる。
だが父方の母(私の祖母)が、児童養護施設に預けるくらいなら自分が引き取って育てると言って譲らず、周りの反対を押し切って私を自宅に連れていったらしい。
この時の光景は私の脳裏に鮮明な写真として残っている。
とある駅のロータリーで、父母双方が車を置いて、私のやり取りをしているシーン。すごく冷酷で思いやりなんて微塵もないようなやりとりだった。
なぜか0歳のときの記憶としてこれだけはいまでも鮮明に覚えていて、頭から離れない。
なぜ周りが反対したのかと言うと、当時でも70歳近い祖母が0歳の子どもを育てることは現実的に無理であり、祖母と私の双方にとって幸せな道は児童養護施設に預けることだと周りが冷静に判断をしていたからだろう。
その後、私は祖父母の家で中学卒業までを過ごした。その間に祖父母は衰え亡くなり、父親はギャンブル依存、借金、失業など、家庭は崩壊の一途をたどり、結局のところそんな原家族で中学卒業までを生きたことで、愛着やトラウマの問題抱えた大人の私ができあがった。
児童養護施設に行った方が、愛着やトラウマの問題を抱える結果には至らなかったのではないか
最近ふとそう思うことが増えた。児童養護施設では職員が入れ替わりとなるため、特定の養育者との間での愛着形成は無理という通説があるが、無理くり家庭において虐待、貧困の中で育てるよりは、よっぽど安心で安全場所なのではないだろうか。
もちろん強引に私を引き取って、必死になって育ててくれた祖母に感謝をしていないわけではない。でもその育児の結果が、愛着やトラウマの問題を抱えた今の私なわけだから、結果だけを見るとその選択は成功だっだとは必ずしも言えない。
もちろん児童養護施設が正解だと言い切ることもできない。
唯一の正解は世の中の大半の人のように普通の家庭で育つということなのだろう。
いまになって過去のそんなことを考えても仕方がないけれど、モラハラ加害者としての私と向き合う中で、自身の被害者性に直面したとき、こんなやりきれない気持ちに襲われて、心のやり場を無くしてしまう。
親がいない子にとって、成人後に生き方を指南してくれるような存在が必要だと痛感
成人後(就職後)に、いわゆる後見人のような形で誰かしらに見守ってもらったり、一人で生活していくうえでの指南をもらえるような環境があればより助かったであろうと今は振り返っている。
ただでさえ、原家族で人としての生き方の基本を習得できないまま成人をしているので、何らかの大人の手助けがないと社会でうまく生きることはできない。
私がその典型で、18歳で上京してからはずっと一人で悩み、一人で判断しながら生きてきた。心から頼れる大人もいなかったし、助けを求める余裕すらなかった。
でもその時点で、自分の愛着やトラウマによる生きづらさに気づくことができていれば、自分の家族にモラハラをしてしまうという結果も未然に防ぐことができたかもしれないと思うと、またやり切れない気持ちになる。
どんな生い立ちであっても、妻や子どもに巡り会えたことは、何にも代えがたいこと
仮に児童養護施設に行っていれば、借金を背負ってまで大学に進学することもなかったかもしれない。その代わりに別の苦労があったのかもしれない。
でも、今の人生を歩んでこなければ、私の大切な家族である妻や子どもたちにも出会うことはできなかったことは事実。
その意味では、自分が歩んできた道に後悔はないし、正解だったのだろう。
今日は外の世界でたくさん傷ついてしまったので、いつも以上に不安や焦燥感に駆られてしまった。こんなときに一人でいるのは本当につらい。
私にも苦しいときに少しばかり帰ることのできる場所がほしい。
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