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「日本人論」再考 (船曳 建夫)

(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)

日本のアイデンティティ

 私の学生時代は、エズラ・ヴォーゲル氏による「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーとなったころで、日本の目覚ましい高度成長が注目されていました。
 それに併せて、その源泉を探求する、いわゆる「日本人論」も大きなブームとなりました。私も、「菊と刀」「日本人とユダヤ人」「「甘え」の構造」「タテ社会の人間関係」等々、ポピュラーな論考はひと通り読んだ記憶があります。

 本書の企図は、タイトルどおり、それら日本人論の総括というチャレンジです。
 ここで著者のいう「日本人論」は、以下のような性質を持つものです。

(p288より引用) 「日本がいわゆる『西洋』近代に対して外部のものである」ことからくるアイデンティティの不安を、それを説明することで和らげ、打ち消す機能を持つもののことである。

 まず、明治時代以降登場した「日本人論」として著者があげているのは、次の4つの著作です。
 志賀重昂の「日本風景論」、内村鑑三の「代表的日本人」、新渡戸稲造の「武士道」、岡倉天心の「茶の本」
 それらは、明治・大正期のナショナリズム高揚のなかで、国際社会の一員として踏み出そうとしている日本及び日本人の位置づけや立ち位置について論じたものです。特に「日本風景論」以外の著作は英語で書かれたものですので、第一義的には、主に欧米の人々に対して訴えたものとなっています。

 たとえば、「武士道」の主張内容について、著者はこのようにコメントしています。

(p72より引用) 限りなくキリスト教、西洋文明の高みに近づいているが、完全にそれと同じではない。しかしながら、そのレベルを日本人は保持してきたがゆえに、そのキリスト教・西洋文明の次元にまで上昇しうる人々なのだ、とする。

 当時の“支配的世界”であった西洋社会においては、新たに台頭しつつあった日本は極めて「異質」な存在でした。

(p72より引用) 新渡戸は明らかに、キリスト者として、また、国際知識人として、日本の非西洋社会としての独自性と西洋文明の中での一般性という二つの相反する要素を、いかに一つのアイデンティティにまとめ上げるかに苦心しているのだ。

 ここで紹介されている4つの著作が上梓されたのは、日清・日露戦争期という、まさに日本の国際社会の中での位置づけが大きく転換しつつあるタイミングでした。そして、この位置づけの変化は、日本としてのアイデンティティを不安定化させるものでもありました。

(p79より引用) この四冊の書物は、・・・日本に対する欧米の評価の低さから来る近代の中のアイデンティティの不安を払拭しようとして書かれ、また、同時に進行していた戦争の勝利によって、評価が上がったことから来るアイデンティティの不安を、自らの高さを正当化することで乗り越えようとして書かれた。

 とはいえ、これら初期の「日本人論」の論調は、近代国際社会における日本の上昇発展傾向と軌を一にしたポジティブなものでした。その後に続く「日本人論」と比較しても、その主張の明るさと自信が際立っています。「無垢」な日本人論ともいえるでしょう。

日本人論不要の時代へ

 第二章で紹介された志賀重昂の「日本風景論」、内村鑑三の「代表的日本人」、新渡戸稲造の「武士道」、岡倉天心の「茶の本」の4つの著作の背景にある不安。この成因を、著者は、日露戦争の勝利による新たな日本の意味づけに求めています。

(p123より引用) 日本が日露戦争によって、国家としての一定程度の位置を西欧諸国の中に占めることとなり、かえって自らの、アイデンティティを疑わざるを得なくなった。

 この心情は、既存の仲良しクラス(西欧諸国)の中に、新参者の「転校生」として加わった不安に似ています。

 そういった明治期の不安に対し、昭和期になると、日本を従来とは異なる立ち位置に置いた論考が著されました。「「いき」の構造」「風土」「旅愁」「近代の超克」といった著作です。

 その中のひとつ、太平洋戦争前、世界大恐慌のころに書かれた九鬼周造による「「いき」の構造」について。
 私も以前読んだときには、奇妙な内容だなと思いました。特に、種々の心情を立体図形をもって理論化する立論はとても独創的に感じたのですが、船曳氏は、本書の特徴を以下のように語っています。

(p98より引用) すなわち、「外国」に暮らすことで否応なくわき上がる日本人としてのアイデンティティの不安を、ある対象を論じる中で考えていくに際して、その外国の事象と直接比較せずに、または比較できないものを取り上げ、しかしながら、その分析には、西洋の文明で鍛えられた方法の刃をもってする、ということである。・・・日本の「色の世界」が、西洋哲学の概念と方法によって分析しうることを証明することで、日本人が孤立した存在ではなく、特殊であっても普遍的な道具で料理しうる、つまり理解が可能である人々であることを証明しようとしたのだ。

 なるほど、これは確かに首肯できる興味深い指摘です。

 さて、こういったいくつかのフェーズを経て、著者の考察は、第二次世界大戦前後の日本人論に移っていきます。
 このころになると多くの人も手に取った有名な著作が次々に登場します。ルース・ベネディクト氏の「菊と刀」、中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」、土居健郎氏の「「甘え」の構造」、さらには、エズラ・ヴォーゲル氏の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」・・・等々。日本人論が一世を風靡した時代でした。
 こういった日本人論の流行は、決してこれらの著作が指摘しているわけではない、短絡的かつステレオタイプな日本人像も表出させました。

(p231より引用) まずは、表面上の主張として近代国家の中で「西洋」との共通性を強調するのであるが、いったん固有性を語り出すと昂奮して正確さを失い、独自性を、相手の「オリエンタリスティック」な枠組みに迎合するかのように誇張をしてしまう。・・・このことは外部の人間の日本理解をしばしば妨げてきた。

 日本といえば、「サムライ」「ゲイシャ」をイメージするとの類の論です。

 さて、それでは今はというと、著者は、日本人論不要の時代になりつつあると考えています。

(p311より引用) 日本人論の最期は始まっている。それは・・・戦後の60年が、日本人論仮説で提示したような不安を感じない世代を生み出しているからだ。日本人論を必要とした日本人の、終わりが始まっている。

 日本人としての「アイデンティティ」が確立し安定化されたのか、それともそもそも「アイデンティティ」という意識自体が不要になってきたのか・・・。西洋に対する日本という不安がアジアの中の日本という新たな不安に変容しつつある兆しも感じられます。「グローカリゼーション」という止揚された思想がゴールだという単純な議論でもないでしょう。

 各国と同じく尊重すべきナショナリズムは持ちつつも、自己擁護を目的とした日本人論は不要となる日本がひとつの目指すべき方向性であり、それに向けた日本・日本人の変容のプロセスが始まったように思います。

(注:と、10年前には思っていたのですが、どうもその後、今日に至る日本を考えるに、そのポジションに全く進化が見られないどころか、知的思考の劣化が大いに際立つ情けない姿に退化してしまったと感じざるを得ません)



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