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「いき」の構造 他二篇(九鬼 周造)

「いき」の哲学的著述

 いままで何冊か哲学系の本を読んで、専門的な言葉づかいで分かりにくいところがかなりありました。翻訳のせいかとも考え、もとから日本語のものなら、少しは分かるかと思ったのですが・・・。

 この本でも、たとえば以下のような感じで、やはり厳しかったです。

(p22より引用) 媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。

 ???、「要するに」といわれても???

(p29より引用) 要するに「いき」とは、わが国の文化に特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる。

 「形相因」とは、国語辞典によると「アリストテレスの説いた、事物が生成するための四原因の一。例えば、家に対しては、設計図にあたる、『家』の定義にかなった機能・構造・形姿。」ということで、「質料因」とは「アリストテレスによる四原因の一。例えば、家に対しては土や木や石などの材料。」ということらしいのです。

 だからといって、上記の「いき」の定義が理解できたかといえば残念ながら無理で、さらに、それでもってどうして、

(p29より引用) したがって「いき」は無上の権威を恣にし、至大の魅力を振うのである。

と論理が続くのか? だめです、哲学的素養のない私の頭では理解できません。
 そもそも日本の哲学書であっても、その基本的概念の出典は「ギリシア哲学」であったり「ドイツ哲学」であったりするので、そこに「翻訳」という媒体は介在せざるを得ないわけです。

 この本の著者九鬼周造氏(1888~1941)は、大正・昭和期の日本を代表する哲学者です。1921年(大正10)より8年間にわたってヨーロッパに留学し、リッケルト・ハイデッガー・ベルグソンに学んだ俊才で、特にハイデッガー哲学のおもな訳語の大半は彼の発案によるものとされています。九鬼哲学の用語が分かりにくいのも「已んぬる哉」です。

横縞は野暮?

 本書は、扱っている対象が「いき」というちょっと色気がかった美意識なのですが、その構造解明の論旨は緻密です。というか、今までこういった詰め方にはあまりお目にかかったことがなかったというのが、正直な感想です。

 「いき」を国語辞典で引くと、「気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられること(さま)。粋(すい)。」とあり、それなりに、そんなもんだよなぁと思ってしまうのですが、九鬼氏にかかると、
 ・「いき」の内包的構造
 ・「いき」の外延的構造
 ・「いき」の自然的表現
 ・「いき」の芸術的表現

と諄々と論を進めていきます。

(p27より引用) 「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。

といった感じです。

 九鬼氏によると、「いき」は「二元性」を要し、図形のうちでもっとも直接的に「二元性」を表わした「平行線」すなわち「縞模様」を「いき」だと感じるのはそれゆえだと言います。

(p63より引用)  しからば、模様としての「いき」の客観化はいかなる形を取っているか。まず何らか「媚態」の二元性が表わされていなければならぬ。またその二元性は「意気地」と「諦め」の客観化として一定の性格を備えて表現されていることを要する。さて、幾何学的図形としては、平行線ほど二元性を善く表わしているものはない。永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。模様として縞が「いき」と看做されるのは決して偶然ではない。

 さらに、縞といっても「横縞」でなく「縦縞」の方が「いき」である。それは、目が左右水平についているから、重力の影響があるからと論は進みます。

(p64より引用) まず、横縞よりも縦縞の方が「いき」であるといえる。・・・その理由の一つとしては、横縞よりも縦縞の方が平行線を平行線として容易に知覚させるということがあるであろう。両眼の位置は左右に、水平に並んでいるから、やはり左右に、水平に平行関係の基礎の存するもの、すなわち左右に並んで垂直に走る縦縞の方が容易に平行線として知覚される。平行関係の基礎が上下に、垂直に存して水平に走る横縞を、平行線として知覚するには両眼は多少の努力を要する。・・・なおまた、他の理由としては、重力の関係もあるに相違ない。・・・

 どこまで本気で思っているのか?、読み進めるうちに摩訶不思議な?九鬼ワールドに引き込まれていく奇妙な快感を感じる本です。

(p68より引用) 「いき」を現わすには無関心性、無目的性が視覚上にあらわれていなければならぬ。・・・模様が平行線としての縞から遠ざかるに従って、次第に「いき」からも遠ざかる。

と書かれても、なるほどそうだとその気になっていきます。

立体で表わす意識

 「『いき』の構造 他二篇」に見られる論じ方で最も興味深く思ったのは、意識・心情・情緒といった類のものを「幾何学的もしくはパターン認識的な図形」の中で意味づけるという手法でした。

 「『いき』の構造」では、上品-下品、派手-地味、意気-野暮、甘味-渋味、それぞれの趣味を各頂点に配した直六面体をもって、その関連する趣味の位置づけを説明しています。

(p43より引用) 正方形をなす上下の両面は、ここに取扱う趣味様態の成立規定たる両公共圏を示す。底面は人性的一般性、上面は異性的特殊性を表わす。八個の趣味を八つの頂点に置く。上面および底面上にて対角線によって結び付けられた頂点に位置を占むる趣味は相対立する一対を示す。・・・上面と底面において、正方形の各辺によって結び付けられた頂点(例えば意気と渋味)、側面の矩形において、対角線によって結び付けられた頂点(例えば意気と派手)、直六面体の側稜によって結び付けられた頂点(例えば意気と上品)、直六面体の対角線によって結び付けられた頂点(例えば意気と下品)、これらのものは常に何らかの対立を示している。すなわち、すべての頂点は互いに対立関係に立つことができる。上面と底面において、正方形の対角線によって対立する頂点はそのうちで対立性の最も顕著なものである。

 そして、その立体の中に、「さび」「雅」等の同系統の趣味を位置づけるのです。このあたりは、かなりの強引さを感じつつも、そうかもなぁという気になってきます。

(p45より引用) なおこの直六面体は、他の同系統の種々の趣味をその表面または内部の一定点に含有すると考えても差支ないであろう。いま、すこし例を挙げてみよう。
 「さび」とは、O、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋味のつくる三角形とを両端面に有する三角壔の名称である。わが大和民族の趣味上の特色は、この三角壔が三角壔の形で現勢的に存在する点にある。
 「雅」は、上品と地味と渋味との作る三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体のうちに求むべきものである。・・・
 要するに、この直六面体の図式的価値は、他の同系統の趣味がこの六面体の表面および内部の一定点に配置され得る可能性と函数的関係をもっている。

 「風流に関する一考察」では、同じように「風流」の分析「正八面体」が登場します。

(p117より引用) 多面体「厳」「華」「太」「寂」「細」「笑」が風流正八面体である。風流の産むすべての価値は、この正八面体の表面または内部に一定の位置を占めている。

 さらに、「情緒の系図」では、立体ではありませんが、ER図(EntityRelationDiagram)のような系図で、代表的な「感情」の相関を描き出しています。

 この本には3篇の論文が収録されています。そのいずれもが、誰でも持っている感情・情緒を対象としています。日頃、それこそ感覚的に捉えているこれらのものを、九鬼流の哲学的方法により分析的に意味づけや位置づけを明らかにしていくのですが、その過程を辿るのは、時に不可解、時に納得という変化が味わえ(すべてにおいて理解できたか否かは別として)頭の体操としては結構楽しめました。


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