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歴史・科学・現代 加藤周一対談集 (加藤 周一)

 久しぶりに加藤周一氏関係の本です。

 今回は珍しく対談集を選んでみました。政治学者丸山真男氏、物理学者湯川秀樹氏、哲学者久野収氏、フランス文学者渡辺一夫氏、宗教思想史家笠原芳光氏、哲学者J=P・サルトル氏、歴史学者西嶋定生氏ら、語り合う相手も錚錚たる方々です。

 まず最初は、丸山真男氏「歴史意識と文化のパターン」というテーマで。気心の知れたお二人の話題は奔放に拡がります。
 その中で興味深かったのは、日本の歴史意識における丸山氏の「古層」というコンセプト。

(p8より引用) 丸山さんが「古層」という言葉でいっているものは、持続低音として続いているというわけでしょう。主旋律は時代によって違う。それはたいてい外からのインパクト、まあ簡単にいえば、仏教と儒教と西洋思想ですね、それとの接触から出て来る。しかし、持続低音はずっと同じ調子で続いている、という考え方でしょう。

 こういった加藤氏の解釈を皮切りに、さらにこう論は進みます。

(p9より引用) それから主旋律のほうでも、外国から入って来たものが日本で微妙に変わる。変わるのは持続低音があるからだということでしょう。だから、はっきり表現された主旋律が外国の原型とどう違うかということを分析すれば、その違いをつくり出した持続低音を推定することが出来る。こういう基本的な考え方は、日本歴史を思想的に捉えるとき、唯一の有効な捉え方ではないか、とさえ思っています。

 どうやるのかという方法論まで具体的にイメージできるわけではないのですが、とても興味深い分析的な思考法だと思います。

 そしてもうひとつ、歴史家としての慈円と新井白石との比較論に話題が至ったとき。加藤氏は白石を評価していましたが、それに対する丸山氏のコメントも面白いものでした。

(p16より引用) 白石には、武家政権に距離をおいて、これを対象化する視点がない。歴史的価値判断の次元でも、白石は筋は通っているけれど、そのために明快すぎてね。慈円の方が判断の仕方が多層的じゃないでしょうか。

 この意見について、加藤氏は再反論します。慈円は、肝心な歴史解釈のところで仏教的な結果論に拠り過ぎているというのです。

(p17より引用) ・・・白石は、もちろん一方ではあまりに道徳主義だけれども、しかし、仏教で逃げちゃうよりも・・・
 ・・・そこは白石のほうが人間の歴史として人間自身の力で説明しようとしている。

 こういった知見の交錯は、(もちろん私には、どちらの論が正しいのか判断できるほどの学識は全くありませんが)とても興味深く感じますね。

 ちなみに、丸山氏との議論で登場した日本の持続低音としての「古層」というコンセプトですが、似たような内容が西嶋定生氏との対話でも見られます。日本は「情の世界」、中国は「理の世界」との話のくだりで西嶋氏はこう説いています。

(p276より引用) 情と理とはもともと次元が違うので、理を借りるときは簡単に借りてきてしまう。情のほうからいえば、融通無碍に取り入れてしまう。しかし、理が取り入れられて、そこで理として定着するかというと、やはりそうはならない。理は情の世界の中ではやはり足場のない浮遊物のようなもので、なかなか定着しない。日本と中国との関係、あるいは日本の中国文明の取り入れ方は、そういう性格として理解できる面があるでしょう。

 丸山氏の「古層」は、西嶋氏のいう「情」と重なるように思います。

 さて、本書に採録された8編を読み通してみての感想ですが、特に私の印象に残ったのは、「科学と芸術」というテーマでの湯川秀樹氏との対談でした。
 加藤氏は、東大医学部卒業ですから、科学的素養は十分に有しているわけですが、他方、湯川氏の学識の広範さには驚かされます。たとえば、こういう言葉が湯川氏から発せられるのです。

(p150より引用) 画を精神の表現とする考え方は、六朝の中ごろの宗炳くらいまでさかのぼるわけでしょうね。

 このあと湯川氏は、荘子の思想にも言及し、「荘子こそが動物生態学の開祖になるのではないか」とも指摘しています。幼い頃から漢籍を学び、また晩年は生物学にも関心を拡げた湯川氏ならではの返答ですね。

 もちろん、他の方々との対談にも、それぞれに興味を惹かれるところ、新たな知見を得られるところが多々ありましたが、この湯川氏の語り口は、柔和であるがゆえに猶更その薀蓄の深遠さを感じさせるものでした。



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