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「昭和」を点検する (半藤 一利・保阪 正康)

 たまたま図書館の書架で目に付いたので読んでみたものです。

 半藤一利氏保阪正康氏という気心の知れたお二人の対談ですが、面白いのは、第二次大戦を中心とした昭和史について、「五つのキーワード」を設定して語り合うという趣向です。

 その「五つのキーワード」とは、

世界の大勢 ―近代日本の呪文
この際だから ―原則なき思考
ウチはウチ ―国家的視野狭窄の悲喜劇
それはおまえの仕事だろう ―セクショナリズムと無責任という宿痾
しかたなかった ―状況への追随、既成事実への屈服

 それぞれのテーマごとに興味深い話が紹介されていますが、その中からいくつか書き記しておきます。

 まずは、「世界の大勢」の章から、使う人によりどうとでも意味づけられる「世界の大勢」という言葉に象徴される「受身の姿勢」について。

(p29より引用) 保阪 日本の外交を考えると、つねに外からの強烈な圧迫が加わってくるときに、急に動きだす。やはり受身なんですね。そういうかたちでしか日本人は動かないところが多々ある。その象徴的表現が「世界の大勢」だった。

 この「受身の姿勢」には、積極的に意図的行動をとる、状況に応じて先取りの手を打つといったビヘイビアは存在しません。

(p47より引用) 保阪 けっきょく、みずからあらゆる選択肢を削っていく態度が日中戦争の際に見られるんですね。この“癖”としかいいようのない態度は、のちの太平洋戦争のときにもみごとに出る。削りに削られた、ごく限られた選択肢だけを選んでそこに直進するというのが、これから後の日本の姿でしょう。

 もうひとつ「この際だから」の章で語られた「集団内共鳴現象」について。

(p73より引用) 保阪 私たちの国の政策決定集団は、狭い空間のなかで、おたがいに言葉を反応させあって、期待、願望、予想がすべて自分たちに都合のいい現実として認識され、言葉としてより強い方向に起案されていくという特徴をもっているように思われます。そのときに唱えられる呪文こそ「この際だから」なんじゃないかな。

 こういった閉鎖的な共鳴プロセスが、狭視野の自己中心的独断戦略を増長させていきました。

 さて、最後に紹介するのは、「しかたなかった」の章で紹介されている下級将校の方の言葉です。
 その方は、「蟻の兵隊」という映画にもなった「日本軍山西省残留問題」に関する「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」(昭和31年12月3日)で参考人として証言しました。

(p195より引用) 私は、過去の地位が高ければ高いほど、そのような人たちが、単に何げなく言ったようなことが、その人が偉ければ偉いほどに、それを有利に解釈したり、あるいは勝手な解釈をすることによって、多くの間違った行動が生まれることは当然だと思います。しかし、そのような場合に、だれに責任があるかという場合において、私はこの人が当然責任を負うべきだと思います。

 下級官僚による“忖度の連鎖”ですね。上官は無責任にも「しかたなかった」の一言で済ませるのでしょうが、最終的な被害者は、決定過程にも関与できないまま理不尽な行動を強いられ悲惨な運命を甘受した将兵たちであり、多くの国民でした。


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