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法句経 (友松 圓諦)

(注:本稿は、2014年に初投稿したものの再録です)

 先日、岩波文庫の「ブッダのことば」を読んだのですが、恥ずかしながらほとんど理解できませんでした。
 そのリベンジの気持ちもあって手に取ったのがこの本です。ただ、どうやらそういう俗な動機で読むのは間違いだったようです。

 先の「ブッダのことば」は、「スッタニパータ」という原始仏典の邦訳でしたが、こちらの「法句経」は、同じく最古の仏典の部類である「ダンマパダ」の邦訳です。
 「ダンマパダ」とは「真理の言葉」という意味で、釈迦の語った言葉を「自由詩」的な形態で採録したものです。

(p330より引用) 誰にもわかり易くいえば、「法句経」というのは数多い仏教のお経の中の「論語」のような人生訓をまとめたものである。

 「訳文」のせいも大きいのですが、確かに説いている内容は「ブッダのことば」よりもより直裁的で指導的なものが多いように思います。また、身近なものを材料にした「喩え」も豊富です。

 たとえば、「第四品 華」の章で印象に残ったことばです。

(p43より引用)
まこと いろうるわしく
あでやかに咲く花に
香なきがごとく
善く説かれたる語も
身に行わざれば
その果実なかるべし

(p45より引用)
華の香は
風にさからいては行かず
栴檀も多掲羅も
末利迦もまた然り
されど
善人の香は
風にさからいつつもゆく
善き士の徳は
すべての方に薫る

 ブッダの説法を“香”に例えての語り口は優しいですね。

 「第十二品 自己」の章では、私としてはちょっと予想外の教えも開陳されていました。

(p111より引用)
おのれこそ
おのれのよるべ
おのれを措きて
誰によるべぞ
よくととのえし
おのれにこそ
まことえがたき
よるべをぞ獲ん

 「自己」こそが「よるべ(=救護者)」であり、「自己」以外に救護者はいないというのです。
 仏教においては「仏」が救護者なのですが、その大前提には、まず「自己」の確立、自己責任の姿勢があることを示しています。

 そして、最後の章「第二十六品」のテーマは「婆羅門」。ここには41とおりの婆羅門の諸相が列挙されています。
 それらの中で、私が、もっともシンプルで端的にその姿を明らかにしたと感じた句を記しておきます。

(p261より引用)
人の世の
縛(とらわれ)を断ち
天上の
縛を断ち
ありとある
縛より離れしもの
われかかる人を
婆羅門とよばん

 さて、本書を読んでの感想です。

 先に読んだ「ブッダのことば」と比較すると、こちらは平易な「現代語訳」が併記されていますし丁寧な「解説」も採録されているので、かなり取っ付きやすいはずなのですが、やはりダメです。私には難解でした。
 原始仏教の直線的なエネルギーはしっかり感じられました。でも、(当然ではありますが、)“仏教の教義”の入り口のドアノブにすら手を伸ばすことができなかったというのが正直なところです。

 また、何か、もっと初歩的なガイドブックを探してみましょう。
 ただ、こういう教えを「本」で理解しようという考え自体が大きな勘違いかもしれません・・・。



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