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東大流よみなおし日本史講義 (山本 博文)

(注:本稿は、2015年に初投稿したものの再録です)

 縦横に歴史を俯瞰したビッグピクチャの中で歴史的なイベントを位置づけ理解するというのは、とても興味を惹く営みです。

 そういった視点に立った著者の山本博文教授が選んだエピソードの中から、特に私の印象に残ったものをいくつか書き留めておきます。

 まずは、戦国時代の「鉄砲伝来」の背景の解説。
 倭寇との関わりが指摘されていますが、これは私にとっては、改めて認識が変わったところです。

(p165より引用) 倭寇は、日本人海賊を呼ぶ言葉ですが、当時、中国(明)は国家間の朝貢貿易以外は認めておらず、中国人が海外に出て貿易することを禁止していました。・・・この体制のもとでは、海外貿易に従事する中国人は存在しないことになり、そういう者たちが「倭寇」と呼ばれたのです。・・・
 ・・・東アジアに到達したポルトガル人は、倭寇が創り上げていた貿易圏に参入することによって、貿易の利益を得ようとしたのです。したがって、種子島に着いた大船は、ポルトガル船ではなく倭寇の船で、漂着したのではなく種子島を目指して来航した貿易船だとみることができます。

 これはいわゆる「後期倭寇」に関する学説のひとつのようですが、昔、日本史の教科書で習った「鉄砲伝来」のエピソードとはだいぶ様子が違いますね。

 もうひとつ、「平安期摂関政治」の実態を説明しているくだり。

(p106より引用) 摂関政治の時代は、藤原氏が摂政・関白の官職に就いて政治を壟断した時代だとイメージされるのですが、実際は太政官で公卿たちによって政治が遂行されていたのです。道長ら摂関家の者たちが、政治を壟断していたというイメージは、天皇が親政を行うことを理想と考える皇国史観の産物だと言えるでしょう。

 私が中学・高校時代に手にとった「日本史」の教科書の記述もそうですが、歴史を語り何がしかの解釈を与える場合、“不偏不党”というのは不可能ですね。歴史を扱う人々が共有する「水準点」のような普遍的な“基点”が存在しないからです。

 そもそも、歴史を語ることは、まさに、その語り部一人ひとりの「史観」の開陳でもあるわけで、そこに、例えば、網野善彦氏の著作の面白さがあるのだと思います。

 このあたりの歴史上の出来事や人物の評価に如何についてですが、私たちが影響されているインプットとして、「歴史小説」での扱われ方があります。
 歴史小説における巨匠といえば、誰しも司馬遼太郎氏を思い浮かべますが、著者は、この司馬氏の代表作「坂の上の雲」における乃木将軍の捉え方を取り上げて、こうコメントしています。

(p289より引用) 小説は、虚構でも根拠のない断定でも、多くの読者に大きな影響力を持ちます。特に司馬氏は、史料に基づいてものを言っているように書くので、ほとんどの読者は、史実だと思うでしょう。歴史研究者が、確かな史料をもとに、正確な史実を提示していくことが望まれます。

 辛辣ですが、大切な指摘です。(注:こういった “司馬史観” の弊害は、坂本龍馬の評価についても明らかになってきていますね)

 さて、本書を読み通しての感想ですが、「歴史の大きな流れ」をつかんだ上で時々の出来事の意味づけを理解させるという著者の目標は、残念ながら十分に達成できたとは言い難いですね。

 歴史の流れを俯瞰するには、時間軸に加え空間軸を意識した捉え方が必要ですし、また、政治・経済・社会・文化等々多面的な切り口からの解釈が求められるのですが、(注:まさに東京大学の入学試験での記述問題はそういった視点から問われていました)本書の記述スタイルがやはり “時系列” を機軸としているので、従来形の解説とは異なる “大きな視座の転換” といったインパクトは、どうやらかなり小さくなってしまったようです。



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