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白洲次郎と白洲正子―乱世に生きた二人 (牧山 桂子・須藤 孝光・青柳 恵介)

 白洲次郎氏は、以前、その著書「プリンシプルのない日本」「白洲次郎の流儀」等を読んで、経歴や人となりはある程度理解していました。また、白洲正子氏については、「私の古寺巡礼」という著作を読んだことがあります。

 本書は、その白洲次郎・正子夫妻のアルバムのような本です。
 左開きの横書きで次郎氏、右開きの縦書きで正子氏、それぞれのパーツを合わせて1冊の本ができています。写真も豊富で面白い体裁の本です。

 本書では、特に正子さんの「骨董趣味」について記されたパートが興味深かったです。

(p六より引用) 白洲さんは蒐集というものを警戒していた。骨董を蒐集しようとすると、美しくないものでも自分が持っていないものを手に入れようとしたり、系統だってものを集めようとしたりするようになる。珍しいものを集めることも、系統立てるということも研究的な態度ではあるが、美の経験とは関係がない。

 正子さんは、骨董をただ集めるだけではありませんでした。実際に身近に置き使うことによりその良さを体感していました。
 それだけに、自分の好みにこだわりました。

(p九より引用) 白州さんは自分の骨董の好みが実にはっきりしていて、他人のものに対してお世辞を言うことがなかった。だいたい自分の好みに外れる場合は「弱い」という語が使われることが多かった。いかにも白洲正子らしい言葉だと思う。

 本書の中に、桃山から江戸期の「織部呼継茶盌」の写真が載っていました。割れた陶器の破片を集めてきて一つの完成品に仕上げる「よびつぎ」という技法で作られたものです。

(p二七より引用) 一国一城の主がそれぞれの文化を持ち、天下統一の夢をみた戦国時代というのは、もしかすると日本列島そのものが「よびつぎ」の時代であったのかもしれない。

 私は美術品に対する素養は全くないので、かえって「なるほどそうか」と素直に感じる記述がありました。

 たとえば、「美術史」について。

(p二七より引用) 日本の美術史は作る者の歴史である以上に、鑑賞者の歴史であるということも私が白洲さんから学んだ大きなことの一つである。桃山期の茶人の選択は一つの創造である。

 また、「美しいものを愛でる心」について。

(p五八より引用) 凡庸な壺はつまらないか。そんなこともない。凡庸な壺を愛する心の広さを持たない人は、神品と出会ったとしても、それに気付かぬ鈍感な人のような気がする。

 さて、本書の著者のひとり牧山桂子さんは、白洲次郎・正子夫妻の長女です。その桂子さんは、「時を経て想う、父次郎と母正子」という章でこう語っています。

(p七四より引用) 父や母のことも、本来の姿と違って一人歩きしているようです。彼らの良い面だけが浮き彫りにされているのは何だか恥ずかしい気がします。

 しかし、自分に正直であったお二人の生き様は、やはりとても爽やかで魅力的です。


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