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私の古寺巡礼 (白洲 正子)

 「プリンシプルのない日本」「白洲次郎の流儀」など白洲次郎氏に関する本は何冊か読んだことはあるのですが、白洲正子氏の本は初めてです。

 本書は、正子氏が若狭・熊野・近江・奈良等の寺社を巡った、その折々を記したエッセイ集です。

 飾り気のない素直な語り口で、それでいて細かな心遣いが感じられる文章ですね。
 たとえば、こういう感じです。

(p57より引用) 織物でも織るように、そうしたさまざまな糸が四方からより集まり、次第に私の興味をかき立てて行った。

 もちろん、ところどころに、正子氏一流のウィットを感じるフレーズも見られます。朝日を見ようと思い立って訪れた宇治の平等院では、

(p84より引用) 待ちに待った太陽は、雲にかくれて、ついに姿を現さず、平等院の朝はそのままずるずると明けて行った。大体東京から駆けつけて来て、いきなり日の出を見ようなんて心掛けが悪いのである。

 そういう言い回しがあるかと思えば、さすがの解釈も語られます。

(p90より引用) 平等院の構想は、ふつう考えられているよりはるかに大きいのだ。鳳凰堂の阿弥陀如来や飛天を見たからといって、平等院を知ったことにはならない。そこには古代の自然信仰から、仏教へ移って行き、再び自然の美しさに開眼した人間の、まったく新しい思想がある。その時外来の仏教は、はじめて自分のものになり、浄土は現実の目に見えるかたちとなった。

 耳学問ではなく、自らの感性と体験でとらえた印象・思いを極々自然体で綴っていきます。対象の歴史的背景・史実もふまえつつ、根本のところは自分自身の感覚・感性を大事にするという正子氏の物事に対する基本姿勢を強く感じます。

 「借景」を題材にした日本の庭についての解釈もそうです。

(p161より引用) 内なる庭と、外の景色が、互に呼応し、無言のうちに共鳴し合っている、そういうものが日本の庭であり、禅宗の思想ではないかと私は思う。

 本書の冒頭「古寺を訪ねる心‐はしがきにかえて」において、正子氏自身、自分の物事に対する接し方について、こう語っていました。

(p8より引用) 何もかも見ることは人間には不可能です。ただ向こうから近づいて来るものを、待っていて捕える。それが私の生まれつきの性分なんで、だれにでも勧められることじゃありませんが、しいて「心」というのなら、無心に、手ぶらで、相手が口を開いてくれるのを待つだけです。お寺ばかりでなく、私は何に対しても、そういう態度で接しているようです。

 本書で紹介されている寺社の中には、室生寺や大覚寺といった観光コースの定番の史跡も含まれていますが、そういった世間の耳目を集めていない隠れた旧跡も数多くあります。
 いつか、本書を供に、そのいくつかでも巡ってみたい気持ちになりますね。


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