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米津玄師の「LADY」をリピートしながら、角田光代の「愛がなんだ」について悩み、人生で初めての長編小説を書く。

ある出来事があって悩み暮れていました。
天に吐いた唾が自らに降り注ぐように、懊悩の日々を。これまでの人生を改めて考え直す時間を。今までの人生を考え続ける日々を。
其処からようやく抜け出して、とりあえずの自分を取り戻した時に、人を愛するとは何なのだろうか?と。そもそも「愛する」とは何なのか?「愛」とは何なのか?考え続けました。家の事情で決断せざるを得ない出来事の連続の全てに「愛」というモノが付き纏いました。

他者を捨てて、自分を「愛」するべきか。
自己を捨てて、他者を「愛」するべきか。

その時に、そもそも愛ってモノに向き合ってこなかった人生を痛烈に感じて、じゃあこれ迄全否定してきた恋愛小説でも恋愛映画でも何でも取り込んで我が物にして、全て否定してやる!自分の信念が正しいって証明してやる!って感覚の嵐が心の中に渦巻ました。
だって、「愛」なんてもんは虚飾とエゴの塊でしかない。慰み者を二人以上創って弄んで楽しむモノこそ「創作恋愛」なんだと。それに呼応して産まれる男女間での「愛」絆の中での「愛」家族の中での「愛」なのだと。
そうやって考える事が正しいんだと言い聞かせて。自分の「愛」に対する歪みはいつの日か芥川賞にでも送りつけて発散させてやろうかと思わんばかりの湾曲と屈折と混沌。要するにクソみたいな人生を。僻みやルサンチマンなどでなく、文字通りの「糞」みたいな人生を送ってきた自負があるので、まぁ、愛を語る資格や愛を考える意義や意味を見出せる程の頭は持っていないなって。だから、愛を避けて生きてきた気になっていました。

ですが、途端にこのザマです。苦手な邦画を立て続けに見て、やれ楽しい!面白い!辛い!って、Twitterに書き込んで一喜一憂して、「愛」という概念を理解する為に必死に本を読み、映画を観、一日一日を精一杯生きる。とか、考える様になったワケです。何故なら生きねば護るべきモノを失うから。「愛」なく生きること叶わぬを知ってしまったから。

とまあ、そんな心境の変化が起こり、小説を書こう。自分の内に溜め込んだ鬱憤を祓ってスッキリしてやろうと思った訳です。
で。厄介なモノが立ちはだかりました。
それが「愛がなんだ」今泉力哉監督の映画です。
そもそも、「君に届け」のアニメを観ていて、複雑な心境になり腐り、果ては何かと考えたら退廃的恋愛邦画だと。そんなことは永続的に映画を見続ける人間なら誰だって気付く事なんですが、自分は恋愛邦画を観るのが本当に嫌いで、だって知らねぇんですもん。
阿呆と阿呆がちちくりあって生まれるストーリーなんざ興味ありゃしないんですもの。
異文化の視座や宗教上の問題提起、異人種感での感覚の違いや文化圏ならではの軋轢をテーマにしているモノは大好きです。だって知らない世界だから。手に入れるコトもなければ欲しがる欲もない世界の話を淡々としてくれるならどうぞして下さい。と。セカイとワタシ。に於ける「愛」は、その場合はLOVEと呼ぶ事が多いですが。角度が変わってセカイへ視点移動させてくれます。「愛」捉える時に垣間見える障壁。それが「愛」のマイノリティ性。苦しさや醜さや孤独を表出させるのだと。でも、邦画になると観るのが辛くなる。受け止めたくないから。受け止めたくないコトが多い現実社会で、「愛」を声高に叫んだ所である種の人にしか刺さらない。それは普通の「愛」を持つ人達。

普通。その言葉が表す通りの普通が広がっていて、限られた範疇、例えば、普通に息を吸って普通に苦労して普通に辛くなって普通に暮らしていくこと。怠惰。のようなもの。
その世界での「愛」は、語るに足らず、霊峰連なる山林の果てにも愛なんてもんはしっかりと存在するもの。世界を一周したって「愛」無き世界など存在しないのだから。何処でだって語られるのが「愛」なのだから。

と。まぁこんな風に思っていた訳です。要はフツーにやってれば傷つかないんだな。なんて甘っちょろく思考を止めていた。けれど、色々あって我に返り。矢張り邦画を観るべきだ。それも、観る事を躊躇ってきた作品を。と、思うに至ったんです。いっそどうにでもなれ!の「愛」

そうして『愛がなんだ』に辿り着いた訳です。何故かって、自分がやたら阿呆だから心の中でストップを掛けるんです。「やめろ!それを観たら辛くなるぞ!内面がボロボロ崩れて醜い己が表出するぞ!」と。
でも、めんどいなって。もう全てに達観し諦観して、他者と自分の境界を露わにするしかないんだって。だって、そのくらい追い詰められて決断を迫られて苦しんで苦しみ抜いて「愛」を考えなさいと、スピリチュアルな夢想家にでもなったみたいに頭をガンガン締め付けられていたから。人なんか救う事は出来ないし、自分すら碌に守れないのに、他者を掬い取らねば生涯後悔する状況に追いやられたから。

そんで『愛がなんだ』を観ました。原作が2003年に書かれ始め、2006年に小説化された作品だと言う事。そして、映画は2019年公開、アレンジを加えてサラリとした読後感がある。作中には無視する事は出来ない歪んだ「愛」の形が存在していて、諦観と傍観と視野狭窄の極致が描かれているのだと感じ観ていました。コレはある種の古い価値観を厭世的に切り取って、今の世の中が続くとコレが正しいみたいになるぞ!いいのか?を、2019年に形にした作品なんだろうなと。

そうして決心しました。小説を書こうって。『愛がなんだ』が語った「愛」について考えたいと思って。
ヨガマットに横たわって、のたうち回りながら、フォームローラーに向かって、書くんだ!書かねば!とか言ってました。小説を書くって本当にしんどい。意味なんかないから。
でも、語るべき物語は必ずあって、誰かには届くはずだという確信はあったので。

米津玄師の『LADY』という曲を永遠ループして書き続ける日々が始まりました。ずっと横たわってスマホでリピート再生続けて、歌詞を思いながら、スマホに文字を打っていく。メモに書き殴ったプロットや設定。思いつきの場面抜粋の殴り書き。書きながら悩みながら書いては悩み、前章がどんな展開だったか? 今自分は何を書いているのか? 米津玄師の声を聞きながら、恋がしたいって言ってる彼の声を聞きながら、ひたすらに書いては悩み消しては悩み。後半につれて何を書きたいのか自分でもよくわからなくなる。

そんな時間を一ヶ月近く、コツコツと過ごして、音楽は凄いな、と感じて居た堪れなくなって転げ回ります。三分ちょっとで自分の言いたい事をカタチにしている。嫉妬と感嘆。離さないでただ一緒に居たい。その気持ちが積み木を積んでいくみたいに重なって、辛いけど行ったり来たりしたいって感情へ結びつく。ハニー。レディー。恋がしたい。何て直接的でありながら、直感的な恋文なんだろうかと思い悩む。美しい恋がしたい。けれど、悩み苦しんで、君の事を何度も振り返ってつらいつらいってはしゃぎまわりたい。感情の反復を感じさせる歌詞。なんてこと。

米津玄師は一時間で15回近くリピートできる愛の形を綴れるのに自分はどうしてこんなにも頭抱えて何も愛を生み出せないのか。嫌になってふて寝してまた嫌になる。馬鹿みたいに阿呆みたいにうんうん唸ってああでもないこうでもないとのたうち回ってみせる。嫌だ嫌だと悲しみ叫ぶ。

何が嫌か?「愛」は虚構だ。片思いってのはエゴイスティックな視野狭窄で、側からしたら崩壊寸前の楼閣だから。気づいちゃった時に死ぬほど辛くなるから。からこその諦観。俺様があるとして、俺様に何を捧げるのか?んなものは一つとして無いんだ。俺様なんていない。自己愛が強い精神湾曲者が佇んでいるだけだから。じゃあ「愛」って何よ?相手を思い遣る気持ち?一歩引いて情けかける心?自己愛と視野狭窄からの脱却?エゴを開け放って自己を見つける?どうすりゃいいんだ。何が「愛」なんだ。「愛」って何なんだ。偽善。この言葉一つで片づけてみるか?そうするか?それで満足か?ああ?どうなんだ?ミックスヴォイスのキーが高く美しく可憐に歌い上げる米津の詩の一編一編のささくれが痛くてしょうがない。

『愛がなんだ』は、その“ささくれ”の話だと考えています。余りにも恋を求めすぎて尖った自己が相手にも仕舞いには自分にも刺さる。見た目は美しい。素敵な物語。
映画を観てから、ささくれを感じて、小説を書く事を決意し、その後に角田光代さんが書かれた『愛がなんだ』を読みました。読むべきだと思って。義務感。と。映画と小説は確実に内容が異なる確信があって。まぁ読んだ後にぐじぐじ言ってる訳で、ホントにそう思ってたかは忘れてしまいました。ぽわんとまあるい月が夜空にうかんでる街に独り。それが小説の全てでした。映画は若さから追い出された若者の恋愛の混乱と苦悩をリアルに垣間見せる作りとみえました。小説は違いました。まあるい世界に独りぼっち。友達も一夜を過ごす相手も雑談に付き合ってくれる人も悩みの告白をできる同士もいるのに……独り。まあるいセカイにひとりぼっち。それが自分也に解釈した『愛がなんだ』です。

セカイがやたら丸くて仕方なくて人も多すぎて貴方しか見えない。けれど、人が多すぎるし世界は丸くて広すぎるから近づけない愛の物語。一定の距離を保ちながら移動し続ける、銀河系や、太陽系や、地球と月、のような関係。括られているのに一つになれないしなる道理がない。それってあいなんだろうか?平仮名がまぢった文体のそこかしこに引っかかるささくれが、胸にざらざらとした傷を作る。ひとってこんなもんじゃない?って。

それはなんかやだな。
そこから構想を始めました。
絶対にぶつかりっこない関係だって謳ってるけれど、本当にぶつからないの?ぶつからなくて満足なの?運命とか信念とか屈辱も怒りも、わたしには届かないから、ちょっと遠くから見てればいいの?書き手は逆さに書いていて、諦観は嫌でしょ?なら、そんな事やめなよって言ってるの?じゃあどう辞めたらいいのか。テルコみたいに地味で無難な女の子をやめればいいの?違うだろ。それは違う。

これは他人の言葉。当たって砕けろ。でも、磨きたいと思うだけ磨け。磨き足りたと思った時にぶつかっていけ。それでダメでも自分には磨かれた先の世界が見える。そしたら恋なんてどうでもよくなるはずだって。

行ったり来たりしたいのはその為で。傷ついても向き合いたいのはその為で。次の恋に進みたいのもその為で。諦めたいのもその為で。ぶつかりたいし悲しみたいし、まぁいっか。って頭を切り替えたくなるのも。目の前に対峙するものがあるからこそ。それが此処で謂う「愛」なのかもな。と。思って。横たわって。スマホのスピーカーから何度も何度も『LADY』がかかって。壁を見つめて「愛」を思う日々。普通の愛。普通か。って。

対峙させたかった。孤立も拒絶させたかった。ルッキズムも吹っ飛ばしたかった。置いて於いて無視する。そうしたかった。虚無の対立。虚しくていい。悲しくていい。馬鹿になって阿呆になって同じ言葉を繰り返す愚鈍でいい。その方がスッキリする。幸せになる。当たるまで何が起こるかは分からない。全てが灰になってもいい。そこから鳥が生まれる。炎の化身が生まれる。それでいい。不死鳥の生まれ変わりこそ凡ゆる現象の中で最も美しいのだから。灰になるまで手を尽くせ。

『愛がなんだ』は美しい小説だと思います。つやつやしたビー玉が都会の夜を転げ回るのを愛おしげに見守ることしかできない読者。彼女とおんなじように勾配に抗えずにコロコロ転がるしかない無力をあじわう。ひらがなのうつくしさの中で。二等辺三角形に模られた光の跡をぼんやり眺める彼女みたいに。『LADY』は、その物語で燻った心を掬い取ってくれます。ちょっとの変化を楽しみたいんだって気持ち。痛くなる程の恋だって味わいたいんだって。キミとキャッチボールがしたい。愛がなんだにはなかった相手にボールを投げることを厭わない気持ちを歌った純粋な言葉。それを交互に思い出しながら、まさに行ったり来たりしながら、一文字一文字書く作業の果てを目指して。苦悶を表情に惜しまず表して。砂漠を一歩一歩踏み締めて。君に届くまで。

彼女の胸の中心にホップする直球165キロストレートを投げ込む。凡ゆる運命や期待の霹靂は無に期しても諦めない。相手がヤダって言うまでは。ヤダって言われても諦めないんですけどね。『愛がなんだ』とは違う愛の形。『LADY』とも少し違う愛の形。宝石のような名作小説と三分間の愛情の共振から逃げ出す様に。拳を握り腿を何回も何回も叩き発破かける文章を。引くな。頓珍漢な世界に閉じ込められても一つの愛を馬鹿と阿呆の二言にのせて穿つ。相手の胸の中央を貫き抉るような愚かさを。人は愚かでいい。愚かさの中核に煌めく美しさに人は引き寄せられる。けれどそれは『愛がなんだ』にも『LADY』にも謂えること。愚かな恋を求めた結論を違えただけ。それでいいんだって。無心になって描いた結末に至る展開。

自分にはこれくらいしかできなかったし、才覚ある文書を綴る事は出来なかったけれど、届いて欲しい人に届けばいいやと思って書き切った13万文字。角田光代さんや今泉力哉監督や米津玄師には遠く及ばない、具足を見せつける愚かな行為をどうかお許し下さい。

これを書いている今。ちょうどプレイリストの LADYがかかりました。そろそろ尽きてきた頃合いでしょう。退廃的な愛などなくて、藻搔いて足掻いて抗って、その先に何が見えるかは人それぞれ。けれど、捨ててはいけない。自分をもう少し大事にしてほしい。投げ捨てる前に出来ることはある筈だから。誰かの為に苦しむ時間は決して悪いものでないから。清々しい明日が待ってるかもしれないし、そんなもんかな?な普通の日々が待ってるかもしれない。だから投げ捨てないで。今回様々な恋愛映画を観て思った事です。素晴らしい作品に出会えて嬉しかったです。生涯書く事など無いと考えていた“小説”と名乗る文章に挑戦する勇気をくれたこと。何より感謝しています。

 そして『愛がなんだ』がくれた琴線に触れる葛藤と対峙の日々。それに何よりも感謝致します。『LADY』とても良い曲なので聴いてみて下さい。

@小説を書くに当たって触れた作品達

・映画
『愛がなんだ』『マリッジ・ストーリー』『パターソン』『モテキ』『勝手にふるえてろ』『私をくいとめて』『ドライブ・マイ・カー』『アイネクライネナハトムジーク』『旅のおわり世界のはじまり』「イカとクジラ』

・ドラマ
『モテキ』『波よ聞いてくれ』

・小説
『愛がなんだ』『ノルウェイの森』『四畳半神話体系』

・アニメ
『君に届け』


私が書いた小説です。よろしければ読んで貰えると嬉しいです。誰かの。あなたの心に届けば何よりです。拙くはありますが心を絞って溢れ落ちた言葉を連ねました。


小説って書くの大変!創作ってしんどい!それが理解できて本当に良かった!そして「愛」について考える時間よありがとう。ほんの少しだけ優しくなれた気がする。それこそが一番大事なことだから。他人に愛を与えるには自分に優しく在らねばいけないから。

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