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Waltz For Debby⑥

フレッドの言うことを疑ったわけではないが、彼に会ったその足でジョンはデボラのステージがあるブリストルに向かった。チケットはソールドアウトで、なんとか当日券を手に入れることができ、立ち見でステージを見つめた。
デボラは美しく黒いドレスを着て、髪を綺麗にまとめ上げてステージに上がった。首元のパールネックレスが照明の光を浴びて艶やかに輝いていた。
優雅にお辞儀をすると、ピアノの前に座った。
今日はトリオだった。
彼女が弾き始めてすぐにわかった。いつものデボラではない。
フレッドの言ったとおりだ。調子を崩している。
ピアノに全精力を投げつけるようなパワーがない。
デボラのインプロヴィゼーションは迷いのせいか途中止まったりした。
それをベースがフォローしているが、明らかにデボラは我を失っている。
苦しいだろう…
ジョンはそう思った。心が乱れている状態でも舞台にあがらなくてはならないデボラを思うにつけ、何とかしてやりたくて仕方ない。
テンポもおかしい。崩れる。早くなったりスローにしたり…この曲はそんなに緩急を入れない曲だ。
ジョンはいてもたってもいられなくなった。
楽屋に向かって、扉を叩く。中からスタッフが出てきて驚かれる。
「デボラ・シンプソンの夫のジョン・シンクレアです。すみません、中に入れてもらえませんか」
スタッフはジョンのことを知っていたため、彼は楽屋に通された。
楽屋から、舞台袖に行くと、ピアノに向かい合うデボラの背中が目に飛び込んだ。
ここに来るまでは…デボラを支えながらピアノを弾き続けられる気がしなかった。
妬みや恨みが渦巻いてしまいそうだった。
だが…こうして一人、心乱れながらも舞台に立ち闘っている彼女の背中を見ると、彼はどうしようもなく抱きしめてしまいたくなるのだ。
恨みも、妬みもあるかもしれない。なくなったとは言えないかもしれない。…しかし、この時に彼には彼女を愛しているという選択肢しかジョンにはなくなっていた。
一方、1曲演奏を終えたデボラはふうっと溜息をついた。緊張しか残らない。
何を弾いてもうまくいかない。気にかかるのはジョンの事ばかり。
彼を失うくらいなら、ピアノを失ったほうがいい…それくらいに思い詰めていた。
拍手の中から、デビー!とジョンの声が聞こえたような気がした。
デボラははっと顔をあげたが、こんなところにいるわけがない。と軽く首を振った。
デビー!
もう一度、ジョンの声がした。今度は下手側から。とうとう頭までおかしくなってしまったのかと呆れながらもデボラは後ろを振り向いた。
ぽかーんと口が開いてしまう。
そこに…下手袖にジョンが立っている。
「あ…」
まごうことなく、ジョンがいる。
デボラにはジョン以外のなにをも映らない。
彼女を導く、美しい音。そして美しい男。苦しみの中をもがいても、私のためにそばに寄り添ってくれる人。
胸に熱くせり上げるものがある。今この瞬間デボラはピアノすら忘れた。
かたん。と椅子を立つと、足元のドレスが絡まるのももどかしく、ジョンのもとに走り寄った。涙が頬を伝う。
ジョンは体当たりするように自らの胸に縋り付いたデボラを抱きしめる。デボラは彼の胸に顔を寄せる。瞳を閉じる。涙がとめどなく流れる。
ああ、そうだ。この幸せが私は何よりも大切だったのだ…。
「ジョン、ジョン…気が狂ってしまうほどに、会いたかった…」
他にもデボラは何か口走っていたが声は涙でくぐもって聞き取れたのはそれだけだった。
しかし、それだけで十二分だった。
「デビー。ごめん…俺が悪かった…君を失うことはできない」
「ジョン…?」
デボラは涙を流しながらもジョンを見上げた。
「だから、どこにもいかないから、君のそばにいるから、弾いておいで。君のピアノを聴かせておいで」
彼女の涙をジョンは指でぬぐってやりながらそう囁いた。
だが、彼の言葉は彼女の涙を決壊した川のようにあふれさせた。
たくさんの愛しているを伝えたいけれど、しゃくりあげて声が出てこない。
「さあ、デビー、お客さまが君を待っている。そんなに泣いたら美人が台無しだ。涙を止めて。いっておいで」
ジョンは彼女の頬と唇にキスをした。涙の味がほんのりとした。
「はい」
デボラは急いできりり、と表情を引き締めると、その両手で残った涙を拭って、ジョンににっこり微笑みかけた。これでいい?と言わんばかりに。
ジョンはそれを見てやっぱりかなわないな、とうなづいた。
この人がいない人生など考えられない。この人があってこその自分なのだと。
デボラはくるっとジョンに背を向けると、堂々とピアノに向かって歩き出した。
何事もなかったかのように彼女は着席すると、マイクを取った。
「みなさま、ごめんなさい少しお時間いただきました。次の曲はWaltz For Debby…聴いてください」
デボラのピアノは一気に変わった。命が通ったかのように生き生きと弾き始める。
音の粒立ちも素晴らしく、滑らかに気持ちがこもっている。ベースとドラムとの掛け合いも実にスムーズだ。
彼女の背中を見つめながら、ジョンはフレッドに言われたことを思い出していた。
―君がいなければ、デビーはバイエルすら弾けないんだ―
ならば、俺は彼女を支え続けるだけじゃないか…。

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