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短編小説「別れた朝はパンケーキを焼こう」Ⅱ章



この遣りきれなさを一瞬でも埋めてくれるのは,
今はあの男しかいないだろう。
会いたくなるのは決まって仕事で嫌なことがあった日か、
捨てたはずの家族を思い出した日。
他のものでは駄目なのだ。
自分の中に流れる薄暗いものに突き当たり、
それを打ち消すように、頭をちぎれるほど振る。

それでも体の奥の方で、
動き始めた液体を理性で止めることはできない。
何の解決にもなりはしないのだ。
分かっているのに、抑えることができない。

スマホを取り出した。
指が自分の体とは別物のように動く。
ラインを始めたころは、打つのに時間がかかったが、
今はこの文字数なら3秒で打てるようになった。
「今夜会える?」
二分ほど待つと着信音が鳴る。
「八時から二時間くらいなら・・・」
また文字を返す。
「了解です。いつもの場所で8時に待ってるね」
少しの間が待てず、やはり爪を噛む。
「こちらも了解です。遅れるようならまた知らせるから」
男からの再返信は意外と直ぐに届いた。

こんな乾いたやり取りをかわし、30分後二人はベッドの中にいる。
食事も何もない。
市の外れにある海浜公園の駐車場で待ち合わせをし、
そのまま海沿いにいくつか並んだホテルの中に入る。
抱かれている間だけ、押しつぶされそうな不安から逃れられた。

珍しくポイント件のないホテルに入った。
「このホテル、どの部屋もオーシャンビューらしいぞ」
男は分厚い遮光カーテンをそっと持ち上げた。
「ふ~ん。でも夜だし。雲っていたら星も見えな・・・」
言い終わらないうちに、
「おい、雪が降ってるぞ。見てみろよ。
海に溶ける雪なんてロマンチックじゃないか」
子供のような弾んだ声だ。
「うん、そうだね」
わざとそっけなく呟いた。
窓際に立ったまま待っていた男は、拍子抜けしたように溜息をついた。
「怒ったの?」
男はそれには答えず、カーテンを開けたままソファーに腰をおろし
背もたれに掛けてあった上着のポケットから、煙草を取り出した。

最近、タバコを吸う男がめっきり減った。
代わりに煙草を吸う女が増えた。
公共施設や乗り物、レストランでも喫煙スペースが減った。
実際に体に悪いのだから吸わない方がいい。
だが、わたしは煙草の煙を
そういやだとは感じなたことがない。
タクシードライバーだった父は
ヘビースモーカーだったからだろうか。

恋という曖昧な想いに心を奪われて、
理性を失うほどのめり込んだのはいつまでだっただろう。
純粋に異性を好きになれた時期は思いのほか短かったように思う。
性を伴わない恋は
中学校三年間の初恋だけだったかもしれない。
早くに好きでもない男に抱かれてしまったのがいけなかっのだろうか。

初体験は、突然不意打ちをくらたような感じだった。
卒業式を1か月後に控えた日曜日、
憧れの男子にバレンタインチョコレートを渡したくて
彼の家の近くで、塾から帰るところを持っていた。
卒業したらもう会えないと思い、
まるでストーカーのように待っていたのだ。
すると、彼は同じクラスの女の子と一緒に帰って来た。
その手には可愛いチョコレートの袋を提げていた。
そしてこともあろうか二人は家の前で抱き合ってキスをした。
わたしは、悪い夢でも見たような気持になり、
方向も定まらぬまま夢遊病者のようただ歩いていた。

どれくらい時間が経っただろうか。辺りは真っ暗になっていた。
寒さも忘れるほど心が冷え切っていた。
その時、見知らぬ男にうしろから抱きつかれた。
驚き、体が硬直し、なぜだか声が出ない。
だが、むしろ人の体はなんて暖かいのだろうと感じたのだのだ。
真っ黒な空から白いものが落ちてきたて、肌に当たり直ぐに消えた。
男はまだ若い青年のようだった。
15歳になったばかりの冬の夜。
わたしが無抵抗だったので、男は手荒なことは何もしなかった。
工事現場の物置小屋の横に止めてあった車に連れ込み、
体中をむさぼり、あっという間に果てた。
今ならわかる。彼はことをする前にいってしまったのだ。
そのあと。一言・二言
「大丈夫」とか「寒くない」とかいたわりの言葉をかけて、
服をきれいに整え、家の近くの公園まで車で送ってくれた。

その出来事を今でも誰にも話していない。

そういえばあの日も雪だった。
母がはじめて家に帰らなかった日の朝のことだ。
そして、その日から両親は一度もわたしの心へ帰っていない。
まだ薄暗い空を見上げると、水気を含んだ重たい雪が、
明けきらない、灰色の空から次々と落ちてきた

前の晩、きっかり夜の八時に、
家の前に横付けされたダークブルーの車に乗って、
「お仕事で少し出てくるけど、いつものように11時までには
帰って来るから、先に寝てなさいね。
それと由紀ちゃん、
亨と一緒に寝てやってね。寒いからくっ付いて寝るのよ」
冬用の花柄ワンピースを着て、
その上に真っ白い毛皮のコートを羽織り、
くろのブーツを履きながら、ふり返った母の顔は怪しげに輝いていた。
少し前に持ち帰り、うっとり眺めていた。
「それ買ったの?」
とたずねると、
「親切な人がプレゼントしてくれたたんだけど、
お父さんいは絶対言っちゃだめよ」
と人差し指を唇に当ててウインクした。

その夜、母は12時を過ぎても帰ってこなかった。
言っていたように冷え込むので、目が覚めて時間を確認した。
約束の時間までに母が帰ってこなかったことを知り、
不安で押しつぶされそうになった。
亨を起こし、トイレに一緒に行ってから
再び二人で布団に包まると、いつの間にかまた眠っていた。
次に目が覚めたのは、
辺りが薄っすら明るくなり始めた時刻だった。


一章と同じく見出し絵はみきたにしさんのパンケーキのイラストです
ありがとうございます

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