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#4 情熱と根性とその先へ続く道

〜息子とトランペットの記憶〜


(1) 連帯責任と託された高い音


2021年3月12日、息子が高校を卒業した。4月1日の今日、音大生になる。

4つ違いの姉がエレクトーンを習っていたときも、姉が金管クラブでトランペットを吹いていたときも、息子は音楽に対してほとんど興味を示さなかった。それなのに、5年生のとき、急に「金管クラブに入りたい」と言い出した。理由は「トランペット、目立ってカッコいいから」だ。

当時、楽譜もろくに読めなかった息子は、楽譜にカタカナで音階を書いていた。土日に学校のトランペットを持ち帰って練習していいことになっていたが、マンションなので家で吹くと苦情が来る。近くの荒川の土手へ吹きに行くことも当時は思いつかなかったのであまり上達せず、6年生の学校行事でソロパートを任されたときも、全然高い音が出なくてプピーッと謎の音を鳴らして終わった。金管クラブの他の保護者の視線が痛かった。

中学校に入って部活を決めるとき、剣道部と吹奏楽部、少しだけ迷って「やっぱり吹部にする」と言って決めた。息子が通うことになる中学の吹奏楽部は顧問の先生が厳しくて、休みがほとんどないという噂を息子も耳にしていたが、それを承知の上で吹奏楽部に入部することとなった。吹奏楽部は人気がないのか、3学年合わせても30人ぐらいで、トランペットは1学年1人だけ、計3人しかいなかった。ファースト、セカンド、サード、3人が違うメロディを吹くので、責任重大である。

顧問の女性の先生は噂どおり厳しかった。いや、厳しいと一言で言うと全然違う気がする。とにかく嫌味たっぷりの言葉でネチネチと叱る先生だった。うまく吹けない子がいると「連帯責任だ」と言い、同学年を集めて「彼のどこが悪いのかを話し合え」と言った。どこが悪いかって? みんな部活中にダラダラと遊んでるわけじゃない。一生懸命練習している。先生が納得するレベルで吹くことができない理由を、中学生同士の話し合いで見つけられるものなのか? そんなことは全く意味のないものに感じた。どうしたらうまくなれるのかという部分など隅に追いやられたまま、ただただ みんなに「ちゃんと練習してよ」と責められ、仲の良かった友達からのきつい言葉を浴びるだけの時間。結果、「すみませんでした。もっと集中して練習します」などという表面的ですごく当たり前な答えを持って、先生に頭を下げ、許してもらうということを何度も繰り返していた。それが原因で、最後のコンクール目前で退部した子もいた。あまり上手でない息子が槍玉にあげられることも、少なくはなかった。

中3の最後のコンクールが近づくと、帰宅するなり頭から布団をかぶり、声をあげて泣くことが何度もあった。コンクールでレ・ミゼラブルを演奏するのだが、盛り上がる場面で重要な高い音が出ないと言う。

4月の保護者会で、わたしは先生から「県大会に進めるかどうかは、○○君にかかっています」と言われた。なんてことだ、失敗したら確実に部員全員とその親たちに恨まれる。この先生は、それを堂々と中3の息子に背負わせようとしている。息子は一生残る傷を負うわけだ。小6のときのソロのプピーッという音が思い起こされる。

内心、全然納得はいかなかったが、その高い音が出ないことは事実。出来る限りの努力をするしかなかった。わたしができるのは、お金を出すことだけだと思った。

コンクールまでの数か月、近くの音楽教室で音大出身の先生のレッスンを受けることにした。それも月にたったの3回。レッスン以外の日は、部活が終わり次第、バスに飛び乗り、音楽教室のレンタルルームを借りて、閉店ギリギリまで練習をしていた。コンクールに間に合わせなければいけない、あの高い音を出さなければならない、ただそれだけだった。

わたしの頭の中では、SEKAI NO OWARIの「サザンカ」という曲がずっと流れていた。「誰よりも不安で、誰よりも泣いて、誰よりもキミは立ち上がってきた」…… 息子の努力はわたしが知っているけれど、この歌のラストのように、いつか報われるときが来てほしいと願いながら。


(2) 先生の選択と涙のコンクール

4か月ほどそんな生活を続け、息子は焦る先生に毎日怒鳴られ、時には連帯責任という名の意味のないミーティングで仲間に責められ、布団をかぶって泣くということが増えてきた。今思えば、そんな苦しい毎日だったにも関わらず、息子が部活をやめたいと言ったことは、3年間で一度もなかった。

コンクールの数日前のこと、ホール練習がおこなわれた。本番の会場ではないが、市民センターのようなホールを借りて、音の響き方を確認しながら練習をするのだ。そのとき、先生に言われたらしい。「もう時間切れです。他のパートに振り分けます」と。ずっと練習していた高い音は、時々出るというレベルまで来ていたが、かすれてしまうことも多く、先生には「そんな不安定な音で、一か八かの賭けはできない」と言われたらしい。

息子は1オクターブ下でその音を出すよう言われ、高い音はサックスやクラリネットの子が吹くことになった。なんて屈辱的なことだろうと思ったが、こればっかりは仕方がない。間に合わなかった。それは事実だ。

帰ってきていつものように布団をかぶった息子は、それまでで一番大きな声を出して泣きじゃくった。「お母さん、ごめん。たくさんお金を出したくれたのに、たくさん応援してくれたのに、間に合わなかった」とわたしに謝った。息子の努力に比べたら、わたしのお金や応援なんて。

先生の選択は、顧問としては間違っていなかったのだろう。まず地区大会を突破しなければならないのだから、仕方がなかった。わたしは「地区大会を抜けたら県大会がある。その先に西関東大会がある。今回は吹けないけど、次はきっと吹ける。諦めないで練習を続けよう」と息子に声をかけた。そうでも言わないと、これまでギリギリの精神状態で必死に頑張ってきたから、このコンクール前の時期にポキッと折れて立ち直れなくなるような気がした。

なんとか前を向いて、次の目標に向かって… と、わたしも息子も必死だった。しかし、結果は惜敗。先生は「今まででいちばん良い演奏ができた」と子どもたちをねぎらったが、地区大会を通過できなければ意味がない。息子からあの音をとりあげて挑んだにも関わらず、地区大会敗退となったわけだ。


(3) 次の目標と謎のコネ

転機は中3の夏、コンクールが終わって志望校を決めるときだった。急に「全国大会に行ける吹奏楽部でトランペットを吹きたい」と言い出した。あんなにみんなから下手だと責められ、泣きじゃくるほど辛くて、納得のいく音を出すことができなかったのに……。でも、小5からの5年間で結果を出すことができなかったことは、きっと彼にとってすごく心残りなんだろうな、とことんやりたいようにやらせてあげよう、わたしはそう思った。たとえ最終的に結果が出なくても、息子が「これでよし!終わり!」と思うまで、見届けようと。

全国大会に出場している吹奏楽部がある高校を調べたところ、県内の公立で音楽コースがあるところを見つけた。しかし、かなり遠い。見学に行ったら、息子は「この高校に行きたい。音楽をもっと勉強したい。ここに決める」と力強く言った。片道2時間。我が家は自家用車がないので、「駅までのバスがない時間も送迎はできないよ? 朝練に間に合うようにするには朝5時ぐらいに家を出ることになるよ? 続けられる?」と何度も確認したが、息子の答えが揺らぐことはなかった。

行きたい高校を決めた息子は、顧問の先生に報告へ行った。先生から返ってきた言葉は「本気で音大へ行くつもりなの? 将来何になりたいの?」だ。

「音楽コースに行ったら、絶対に音大へ行かないといけないものなの? 高校に行っていろいろ勉強してから、他の道を選んじゃダメなの?」と、息子もわたしも困惑した。中3の夏の時点でもう職業を選ばなきゃいけないなんて……。そんな一本道しかないわけがないと、わたしは思った。

先生に何度も問い詰められ、大学も職業も急に決めなきゃいけなくなった息子は、涙目になりながらパソコンに向かって「音大に行った人がどんな職業につくか」を調べ始めた。わたしには違和感しかなかった。誰だって、人生の道は一本道ではなく、何度も分岐点があっていいはずだ。「あなたの将来はパソコンの中にはないよ。自分の目で見てから決めるものだよ」とわたしは息子に伝えた。

しかし、先生は納得してくれなかった。

先生の威圧的な質問攻めに負けて、息子が自分の意見を言うことができない様子が目に浮かぶ。わたしは「仕方ない、出番だな」と重い腰をあげ、担任の先生との三者面談とは別に、顧問との二者面談を申し込んだ。

上に書いたような、わたしの意見をハッキリと言うことには成功したものの、先生は「音大はそんなもんじゃないんですよ」とバカにしたように否定した。先生が何を言いたいかを汲み取るのに苦労したが、要は「あの学校の音楽コースを受験する子は、みんな音大に行くつもりでいる」「将来どんな職業につきたいかもわからないのに、あの学校の音楽コースに行くなんて」ということと、「音楽の世界はコネで成り立っているから、音大出身の先生の個人レッスンを受けないと、絶対に合格できない」「あの高校に行きたいなら、わたしの顔で話を通してあげる」「わたしなら音大の先生を紹介してあげられる」ということだったようだ。

正直、そんなわけあるかーと思った。だって公立高校なのだから、内申書も学科テストも点数化されるはず。実技試験の出来が多少悪くても合格できるぐらいの評定値と偏差値は、充分に持っている。わたしは「この人、自分のメンツが大事なんだ。要は『わたしの顔を潰すな』ってことだ」と感じた。

当然わたしは反論した。音大出身の先生のレッスンを受けないとダメだという話については、その高校が受験生対象に6回の体験レッスンをやっているので、そのチラシを見せた。「これに全部出るつもりです。吹奏楽部顧問の先生のレッスンを1対1で受けられます。それで大丈夫でしょう?」と言った。しかし、先生は引かない。「わたしが手を回してあげるけど?」というようなことを遠回しにずっと言っている。

1時間半ぐらい噛み合わないやりとりをして、「こりゃ無理だ、決着はつかない」と思ったわたしは、「じゃあ、もうそれでいいです」と二者面談を閉めた。「仕方ない、出番だ」と意気込んでボスに立ち向かっていったはずのに、なんなく撃沈。

帰宅後、やはり腑に落ちなくて、わたしはこの二者面談について、すぐに担任の先生に報告した。体育担当の男勝りなベテランの女性の先生だ。わたしは「こんなことを言われたんですけど、本当にそうなんでしょうか。コネがないと、合格できないんでしょうか」と聞いた。そうしたら担任の先生は、キッパリと「公立ですし、そんなことはありませんよ。学科も評定も良いので、よっぽど悪い態度だったり実技が全然できなかったりしなければ、大丈夫。充分に練習をして挑みましょう」と言ってくれた。

このあと、実際、顧問の先生が高校の先生へ働きかけたかどうかはわからない。しかし、息子が高校の学校説明会に行った翌日、先生から「なんでわたしのところに報告に来ないの?」と恩着せがましく言われたそうなので、なんらかの連絡はしてくれたのだろうと思う。結果として息子は無事に合格することができたのだが、あのときの先生の働きかけのおかげで合格できた、あれがなければ合格できなかったとは、決して思わない。親バカの勝手な解釈かもしれないけれど、息子が頑張ったから合格できたのだ。

卒業間近の3月、毎年恒例の部活懇親会がおこなわれた。先生と3年生の母親が集まり、感謝の言葉を述べたり思い出を語ったりする場なのだが、わたしは非常に居心地が悪かった。酔っぱらって調子に乗った1人の母親が「せんせ~、子どもたちの良いところを1人ずつお願いします~」などと言い出した。息子はあれほど毎日叱られてたんだから、きっと先生も言葉に困るだろうにと思った。

要望どおりに先生が「○○さんは個人練習を真面目にしていて…」とか「○○さんはエンターテイナーでソロをやらせたら抜群…」とか1人ずつ褒めまくる中、息子の番になった。先生は「○○くんの良いところは… 」と少し言葉を詰まらせたあと、「情熱と根性です」と言った。「えっ、それだけ?」という空気が流れ失笑が起こったが、わたしはそれで充分だと思った。

あんな大変な3年間を過ごしながらも、まだ上を目指し、これから全国大会レベルの吹奏楽部に入るんだ。まさに「情熱と根性」。息子にぴったりの言葉ではないか。続けることに意味がある。いつか頂点に立ってみんなを見返す日が来るんだから見てろよ、心の中でそう思っていた。


(4) てっぺんからの景色と報われた2小節

全国大会に毎年出場するという吹奏楽部は、本当にいろんなことがケタ違いだった。部員数は約270人、トランペットだけでも3学年合わせて30人以上いる。いろんな中学校からこの吹奏楽部に入りたくて入学してきていて、息子の片道2時間なんて、それほど遠いほうではなかった。もっと遠くから通っている子もいたし、この学校に通うために一家で近くに引っ越してきた人もいると聞いた。

部員約270人は、吹奏楽コンクールに出る選抜55人、マーチングコンテストに出るマーチングチーム81人、それ以外の演奏会に出るコンサートチーム、3つに分かれていた。当然、息子は選抜55人の枠を狙ったわけだが、中学のときに全国大会出場経験のある子もいて、中学で地区大会敗退という戦歴の息子とはスタートラインがかなり違うように思えた。

それでも、毎年選抜オーディションに果敢にチャレンジしていた息子は、結局55人の中に入ることはできなかったが、1~2年はマーチングチームに入り、全国大会で金賞を取り、中3のときに夢見た「全国1位」からの景色を見ることができ、本当に充実した2年間だったと思う。

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(息子が全国大会へ向かうバスの中から撮った 日本一の写真)

なにより毎日が楽しく、一度も休みたい、やめたいと言ったことはなかったし、朝4時半に起床、5時過ぎに家を出て、22~23時頃に帰宅する生活を2年、よく頑張った。ついでに言うと、わたしは毎日3時半起床、弁当と朝食を作って息子を送り出し、息子が帰宅をして風呂から出て布団に入るまでを見届ける生活(風呂で確実に寝てしまうので、何度も起こす仕事)、就寝は夜中の1時頃。わたしもよく頑張った!

2020年度、3年生のときはコロナウイルス感染症流行の影響で、吹奏楽コンクールやマーチングコンテストが中止になり、通常の部活動もほとんどできなくなった。演奏している動画を各自で撮影し、学校で合成して配信するなど、モチベーションが下がらないように先生はいろいろと考えてくれたが、やはり目標がなくて部員の士気は下がっていたように思う。5月の定期演奏会は延期になり、なんとか11月に生配信をまじえて開催することができた。そして11月に行う予定だった卒業公演は、卒業式を終えたあとの3月の後半、小規模で開催することができ、これでやっと高校の部活が終わり、次へ向かえるのだという安堵の気持ちの中、1つの区切りを迎えた。

コロナのせいで集まることを許されなかった期間、息子は毎日トランペットを持って、荒川の土手へ行って基礎練習をしていた。定期演奏会のためでもあるが、息子が見据えていたのはその先の音大だったと思う。高校で音楽の授業をたっぷり選択して音楽漬けだった息子は、当然だというように迷うことなく音大を志望した。無事に指定校推薦をもらうことができ、合格は確実になってからもずっと練習していた。やはり見えているのは定演でも受験でもなく、音大での生活、そしてその先だったように思う。

なんとか開催できた11月の定期演奏会では、中島みゆきさんの「糸」を演奏する際、息子は落ちサビのソロを任された。ソロには良い思い出がない。小6のプピーッという音と、レミゼの出なかった高い音がよみがえる。わたしは、今度は大丈夫だろうかという不安しかなかった。本番の日、喘息持ちのわたしは自宅で一人、ドキドキしながら生配信を見ていたが、ソロの場面で立ち上がってスポットライトを浴び、きれいな優しい音でその2小節を吹き終え、安心したように笑顔でおじぎをしたとき、ああ報われたと思った。たった2小節だったが、今までの小5からの時間は無駄じゃなかった、このためにあった、そう思って涙が止まらなかった。


(5) 情熱と根性とその先へ続く道

そして、今日、ネクタイを結ぶのに15分もかかりながら、新しいスーツを着て少し背筋を伸ばし、気持ちあらたに入学式へ向かった息子を見送りながら、わたしは「まだまだ道半ばだな」と思った。

演奏学科に入ったが、どこがゴールだろうか。トランぺッターとして有名になること? どこかの楽団に入って演奏できるようになること? きっとずば抜けて上手な人しか、そういうふうにはなれない気がする。でも、なんでもいい。情熱と根性、それが息子の持ち味。どんなかたちであれ、今までのようにたくさん努力をして、大好きな音楽とトランペットを楽しみながら生きていけますように。




★2022.7.4 追記

息子、大学2年生になり、大学生活を満喫しています。トランペット含め、音楽の授業に関しても、必死に食らいついているというところでしょうか。

朝ひとりで起きられないのは相変わらずで、いまだに「起きろー!遅刻だー!」と声をかける毎日。生活習慣についていちいち注意されるのもイヤみたいだけど、「今言わなければ、将来結婚したときに奥さんが困るだろうなぁ」なんて頭をよぎり、ついつい口を出してしまい、バトルになる日々です。

DISH//さんの「沈丁花」がとっても良い歌だったので、貼らせていただきました。

いつか息子に、こんなふうに思ってもらえるといいな。




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