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守破離

 良く「こなれる」ことは悪いことのように言われる。言葉の中にどうしても「手を抜いている」ような響きが含まれているからだろう。

僕自身としては、こなれることは、守破離の「破」に達した段階だと思っている。

【守破離(しゅ・は・り)】
剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。
「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。
コトバンクより

筋トレだったり日々のルーティンだったりを毎日欠かさず続けていると、基礎体力ができるとともに、肌に染み付くような「加減」というものも手に入ってくる。

僕は料理が得意ではないのだが、その時のコンディションに合わせてがっつり食材を揃えて料理を作るのか、冷蔵庫にあるものだけで手早く料理を作るのか、などもある種「こなれ」ていないと出来ない芸当だと思い、出来る人を尊敬している。

思えば自分に当てはめた場合、曲を作る場合でも、条件や工数・納期に応じた加減は多少なりとも使い分けていたりする。良いものを作る為、総合的な全体最適を見越したうえでの「加減」によるものだ。

 僕は note の記事を毎日アップするにあたり、わりと明確に「まず "こなれる" こと」を打ち出して開始した。

基本的に早朝に綴っているのだが、周囲の状況、残されている時間があとどのくらいなのか、今日は予定があるからこの時間までには記事を仕上げてしまおうなど、こなれることでその日の文章量や熱量を程よく使い分けることができている。

正直この「熱量の使い分け」を自分の中で意識できるようになってからは、note を書く作業がとても楽しくなった。一気に義務感がなくなった。

アイドリングが効いているおかげか、変な実用書を読むよりも、はるかに日常生活で適切な語彙によるプレゼンが叶うようになり、ストレスフリーな毎日を送れるようになった。

柔軟性が定着する…というとなんだか真逆の表現に見えるかも知れないが、呼吸の一部となるくらい慣れることにより、余裕とともに発想の拡げ方、自分だけのリズムなどがおのずと掴めてくる。

その繰り返しによってどこかの段階で「離」は自然に訪れるものだと思っている。

 少なからず「継続性」とも密接な関係を持つ「こなれる」。どういった目線で日々捉えるかが大切なんだと思う。

今日はこんなところで。

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