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掬い、救われ。(文化/趣味は生きる力)

(※思いのままに書いていたら、5500文字を超える長文となってしまったので、お時間のある方はどうぞ…!無料で最後まで読めます。)

ここ数日、業務中や運転中、ボーッと過ごす時間時間の中で、ぽつぽつと自分自身のことを顧みる、ということが多くなって来たため、個人的覚書としてここに記しておきたい。



突然だが、わたしは、こうして今の年齢まで何とか生き延びて来られたことを、大袈裟ながらも、これは殆ど奇跡みたいなものだよな…と考えている節がある。


それは多分、自身が未熟児として産まれ、幼少期には体が弱く学校や塾を休みがちだったことや、学生時代、クラスに馴染めず孤立し、暗くジメジメと過ごしがちだったことも大いに起因しているだろうし、実家では、暴君として君臨し家族を日々罵り大酒を喰らう吝嗇家の祖父に怯えて暮らしていたこともあり、兎に角精神面・身体面がボロボロのぼろ、満身創痍の状態であったので、そんな子供が大人になったなら、すくすく健やか!というわけにはいかぬよな……うむ。との予想通り、増田こうすけの『ギャグ漫画日和』のナナメに折れ曲がるロボの如き人間に育ったのであった。(※今は多少…なりとも、真人間になりつつある、と信じたい。)


そんなふうなので、途中でグレたり、うっかり死んで現世にサラバイしても全くおかしくはないのだが、気付けば三十路超えて四十路に声が届かん、というところまで生き延びているという、16の思春期+絶望期真っ只中のわたしからすれば、"まじかよ……。こいつ、三十路超えてまでまだ生きてんのかよ……!"と二十三十の責苦と絶望を感じる暗黒未来であるかもしれない。

が、しかし、個人的には、登園拒否して泣きじゃくっていた5歳児の頃より、友達と離れてしまった新クラスで行われた、担任主導の集中砲火ないじめで散々だった地獄の小三より、他のクラスにしか友達がおらず、しかも顔中ニキビまみれで世界と自分を呪いまくっていた16歳〜18歳の三年間よりも、そして、元上司(すわサイコパスか?)によるパワハラで、元々折れやすかった心がバッキボコに複雑骨折した社会人デビュー時代なんぞより!も!!

なんとななんと……

今(三十路超え〜)の方が格段に楽で、しかも楽しいのだ。

まぁ、色々経験を積み、年齢的にも棘や粗がいーい感じに削り節され、燻し銀になって来た(=というか、単に落ち着いて来た。)から。というと聞こえが良いし、余りにも一般化し過ぎのような気がするが、確かに、時間の経過、そして加齢とともにマイルドになった面も少なくないだろう。または、ただ単に、人との巡り合わせや運が良かったのだ、とも言えるかも知れない。


その両者ともにそれもそうだ、と感じる。感じるのだけれども、それだけでは片手落ちなのだ。わたしの場合。

自分自身で沢山粗相もしたし、足元を掬われるような苦い出来事も多々あったし、逆に自分で自分の足元を掬うようなことをやらかしたりもし、それを今思い返すと未だにイヤーな冷や汗が吹き出て、あの時は本当にすみませんでした……!と、若く無知だった自身の至らなさについて、当時迷惑を掛けた人に頭を下げたくなるほどだ。

わたしは長年、べらぼうに自信が無く、全ての不幸は自分のためにある(?)というか、全ての不幸の元凶はわたしです!といった"不幸が貧乏神背負って負のオーラを振り撒きながら練り歩く"タイプの、マイナスの意味でのモーセ状態であった。これでは、皆が道を開け、割れる海の如く己に寄りつかないのも納得である。


そんな"ザ・マイナスのモーセ"だったわたしであるが(そして大分ましになったとはいえ、たまに負のモーセ状態になってエア海上で荒れ狂いもするが…)それでも何とかかんとかいい歳(三十路)まで生き延びて来られたのは何故か、と己に問うてみると、それはやはり『文化の力』だと身に沁みて痛感するのだ。


『文化』と言うと、ちょっと堅苦しいかも知れないので、もう少し砕けた表現をすると、要は、『趣味に助けられて来た人生だった』ということだ。
勿論、友人や妹、周囲の人々に助けられたことが皆無、という訳では断じてない。人生に於いて、都度都度適切にわたしを救いあげて下さった数々の手には感謝してもし切れないし、あの人とのあの出会いがなかったら……と考えることは未だに多々ある。
女の恋は上書き保存、などとまことしやかに世間では言われているけれども、少なくとも、20年以上前に好きだった人のことを思い出し、未だ微笑ましい気持ちになったりもするし、中学時代の恩師の『わたしはあなたの書いた文章が好き。もっと色んな文章を書いてほしい。』という言葉が力になっていたりもする。



そういった恵みや巡り合わせ、としか言いようがない人たちの存在を想うと胸が温かくなり、有難い気持ちでいっぱいになる。今となっては、会うことが出来ない人も多いが、彼/彼女らが幸せであるように…とその幸福を願ってやまない。
そんな人々に感謝しつつ、この記事では少し横に置かせていただくとして、さて、やっと本題です!(前置きが長くて申し訳ない)


そう、前述したように、わたしは大いに趣味に助けられて来た人生だった。
一番最初の記憶は、絵を描いている自分である。5歳のわたしは当時、セーラームーンにドハマりしており、家に居る時間のほぼ全てをお絵描きの時間に費やしていた。
昔は、好きだから絵を描いているのだと思っていたが、大人になって、たまに絵を描くリハビリをするようになってから気が付いたことがある。
自由な気持ちで白い紙に向かって鉛筆を走らせていると、その間は、"しん"とただただ無心になれるのだ。当時は分からなかった"絵を描くこと"の効能に改めて驚くとともに、当時のわたしが絵を描くのが大好きだったのは、周囲を遮断して自分の世界に入り込む必要性があったことも関係していたのかも知れない…と改めて思ったのだった。

そして、絵を描くこととほぼ同時に、わたしは本を読むことが大好きになっていた。
きっかけは、母の毎晩の読み聞かせからだった。幸いなことに、読書家の両家叔母から、どさどさお下がりの本をもらっていたため、我が家には常に本が潤沢にある状態だった。
父と母の方は、お世辞にも学があるとは言えない人たちなのだが、それでも"何だかよくわからないが、この子は本が好きらしい。ならば、本を与えよう。(ゲームよりはマシだし、何より勉強にも良いはずだから。)"という、わからないなりにも、我が子の本好きに協力する姿勢も、結果的には功を奏したのかも知れない。振り返ってみても、本を読むことを禁じられなかったことの影響は、大人になった今でも、本当に大きく、有難いことだったと感じている。(※後年、食事時にも本を離さず、布団の中でも読みまくるという蛮行を働くようになったのが親の目に余ったらしく、しばらく我が家で読書禁止例が出たことがあったが、それは例外、ということで。笑)


元来、極度の人見知りの怖がりだったわたしは、小学校に上がると、案の定新しいクラスで友達を作るのが難しく、小学校時代は殆ど休み時間を読書か絵を描くことに費やした。
が、ただ単に逃避のため、という悲しい読書や絵描きではなく、本当に楽しくて仕方がなくてのめり込んでいることも多かったのだ。
教室という狭い世界から、本を開けばあっという間に時代を越え、場所を越え、気が付けば、ちっぽけなわたしの中にでさえ、あちこち世界が開かれていると感じて、それが嬉しかった。

ファンタジーの愉快さ、江戸川乱歩のミステリの恐ろしさと推理の見事さ、恋愛小説に垣間見る大人の世界や、中学時代から本格的にハマった近代文学では、小説の中で自分と同じようなテーマに悩み苦しむ当時のひとの姿を見付け、何だか安心したり、また、白秋や寺山修司などの詩や短歌の美しさに胸を衝かれ、ハッと息を呑んだりもした。 

中学三年の時に、唯一楽しい学校生活を送れた記憶があるのだが(親友が同じクラスになり、また友人も増えたので)それでも、本を読む楽しみは尽きることはなかった。
今は、当時に比べると読書量も格段に減り、すらすら読めるだけの視力にも少しずつ難が出て来ているのだが、それでも、本を開くとわくわくする気持ちは変わらずあるのだ。

それが今の、完全自己満足下手の横好き趣味の近代文学(青空文庫)朗読にも繋がっている気がする。
何しろ、未だに、旧漢字旧仮名遣いに胸がときめく始末なのだ。これも、幼少期から本を読む喜びを感じていなかったら、きっと味わえなかったことだと思うと、感慨深い気持ちになる。


……と、気付けば、読書についての時点で大量に書きまくっていて自分でも驚き桃の木なのだが、あと少しだけ、"この趣味があって良かった"を語らせてほしい。

もう一つ、この趣味には本当に救われた……というものは、"音楽"である。
わたしの場合は、曲を創る訳でもなし、完全なる"聴き専"というやつなのだが、絵を描いたり、読書をする以外に、音楽を聴いているその時間だけは自由でいられたのだ。


思春期、一番ドハマりしたのが椎名林檎で、同時期に活躍していた浜崎あゆみや宇多田ヒカルよりも、彼女の楽曲やビジュアル(MV)センスに個人的に非常に惹かれたのだった。何より、歌詞カードの漢字やちょっと古めかしい言葉遣いが、前述の通り近代文学好きだった思春期のわたしの心を、ギュッと鷲掴んだ。
この時、初めてお小遣いを貯めて彼女のシングルからアルバム、そして彼女の表紙やインタビューの載った音楽雑誌やなんかを買い漁り、家で、そしてバスの中で、カセットプレーヤー(懐かしい!)やMDプレーヤー(懐かしい!!)に落として聴きまくっていた。高校時代、椎名林檎に憧れる余り、アーマーリングが欲しくて堪らなくなりバイトしてお金を貯めたのも本当に懐かしく、良い思い出だ。(因みに、バイト代は当時の現役高校生の現実的な判断により縮毛矯正に当てられ、結局アーマーリングは購入せず、というオチだった)


今思えば、椎名林檎はわたしにとっての人生初の本格的な"推し"であった。
初めてのライヴを観に行ったのも、林檎ちゃんだった。(あれは、東京事変結成前夜のソロライヴだったと記憶している。)



そしてその後、我が人生最大の推し・菊地成孔との出会いが待っているのだけれども、菊地さんは、音楽のみならず多方面から、いちファンのわたしに今もって刺激をくれる、とても稀有な存在だ。
今までの人生の中で、"わたしの好きなもの"(例えば……修飾たっぷりの絢爛豪華な文体と諧謔たっぷりの文章や知識、様々な分野を横断して産み出される最高の音楽と言葉や自身の語り、そして、一見不真面目なんだけれども、一本背骨の通った美意識が通徹している…etc)が一人の人間の中にゴタ混ぜになっているのだ。これは最早、ハマらない方がおかしい!とさえ思える。(この状態を、人は"沼に落ちる"と言うのかも知れない……)そういう、毒々しいほどの美しさでもってわたしを夢中にさせる力に満ち満ちた彼という存在に、彼を知り、とうに15年以上経とうとしているというのに、わたしは未だ魅了されてやまない。


それはまるで、或る面では呪いかもしれないが、しかしその呪いはまた、わたしにとっては慄然とするほどの最高の祝福でもあるのだ。
彼の音楽に、ライヴに、言葉に、いつもわくわくし、常に焦がれ続ける。それは多分一生、わたしか、不謹慎ながら、彼かのどちらかが死ぬまで続く狂おしき歓びの日々だと、(今のところは、であるが…)確信している。


何しろ、本当に勝手なファンの戯言ながら、菊地さんには長く暗い鬱屈とした時代を支えられたという実感がある、という部分も大きい。彼の音楽は本当に途轍もなく素晴らしく、うっとりとそして不穏な、しかしハッピーな気持ちにさせてくれるものだが、それと共に、彼の書く日記(昔は無料で日記をサイト上で公開していた)を毎日毎日読んで、どうにかつらい日々を耐え抜いた、という記憶があるので、尚更だ。そんな訳で、"悲しいことも すぐに気持ちよくなっちゃうみたいね"(SPANK HAPPY/angelicより)といった趣旨の歌詞が彼の曲や、文章にたびたび出て来るのはあまりにも出来過ぎなエピソードかも知れないけれど。
そもそも、彼の音楽や言葉は、痛みや悲しみ、苦しみを制圧するには充分過ぎるほどの甘さと毒が盛り沢山なのだから、手負のわたしには、それはそれは効き過ぎなほど、芳醇な救いとなったのだった。



収拾がつかなくなりそうなので(というか、最早とっ散らかりまくっており
恐縮なのだが…)纏めに入ることにする。



わたしは、文化(趣味)によって救われ続けて来た。どんなにつらく、キツく、もう駄目だもうこんな世界とはおさらばじゃ!と絶望し打ちひしがれ、動けずに布団に潜りべそべそ泣きじゃくるような日があっても、また、反対にウキウキで何をしても世界が美しく、全てに心から敬意を示したくなるような日も、また、日常の業務を淡々とこなし、食材を買い出しに行き、身内と食事をし、布団に入ってぐっすり眠りに就くその日も、その間もその全てを包摂して、今までのわたしを支え、救いとなってくれたものたちがわたしの脳味噌や細胞に息づいているのを感じる時がある。

蓄積されたそれはとても尊く、わたしの中で美しく輝く小宇宙を形成している。他の人には見えなくとも、今までも、そしてこれからもずっと、この"小宇宙"にわたしは何度も助けられ、救われ、この世知辛い現実を生きる力が蓄えられていくはずだ。そして、それらは美しく逞しい間欠泉となり、わたしの中で何度も飛沫を上げるのに違いない。






※ここまで書いておいて、アッ……!しまった。旅について書き忘れた!(旅行も大切な趣味なので)と独りごちているのだが、絵と読書と音楽(推し活?)の話で既に非常ーーーに長ったらしくなってしまったため、こちらはまた今度にします……。


#ハマった沼を語らせて #趣味 #人生 #推し






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