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読んでない本の書評43「潮騒」

113グラム。焚火を飛び越えねばならぬので。

 いい加減アイドル映画としてこすられ過ぎた後なのでさすがに陳腐化しているだろうというつもりで読み始めたら、ひさしぶりに読むミシマはやっぱり嫌みなほどうまかった。

 たとえば恋のライバル安夫が、我らが初江ちゃんを深夜に手籠めにしてしまおうとする場面。普段から自慢にして、女にもてるために持ち歩いている夜光腕時計のおかげでイザってときにハチに襲われみっともない羽目になる、という仕込みなんか小面憎い感じがする。「悪いやつが鼻にかけてるもののせいでひどい目に合うの楽しいでしょ」という読者ご接待をひしひしと感じる。小気味よい一方で「ミシマコノヤロー」みたいな感じもちょっとある。作品の影に隠れてもらうには作家としてキャラが立ちすぎているという不運なのか。

 それにしてもやはり一番の謎は「その火を飛び越して来い」である。
  最初の「潮騒」は、おそらくは子供のころアニメか何かで見たのだと思う。あのシーンの細かい意味はもちろんわからなかったであろうが、なんだか変なシーンだと思った。それが今見ても、ほとんど印象が変わらないくらい変なシーンだなあ、と思うのだ。

 屋外でキャンプファイヤーみたいな火柱が吹き上がってるところを「その火を飛び越して来い」と言うのであれば、なんとなく読者も新治も、よっしゃやったる、という気にもなるというものだろう。大人になるための儀式とは命の危険をともなうというものだ、派手なほど元気が出る。
 それが、雨の日にコンクリート製の仮小屋の中で松葉を燃やしてるとあっては、おそらくは飛んだところでどうってこともない焚火ではないか。なぜそんなものをわざわざフリチンで飛べ、というような素っ頓狂な要求をするのか。そして飛ばしておいて「嫁入り前の娘がそんなことしたらいかんのや」になるのか。
 一個人の少女の心の動きなどはどうでもよくて、火を飛ぶことになにか神話的で記号的な意味がある、ということならばもう私ごときにミシマの考えることはわからない。
 そうではなく、生身の人間の青春恋愛小説だとすると心の動きがぎっくりばったりしすぎやしないだろうか。乙女の恥じらいが普通の思考回路からぶっとんんでしまうのは想像できるが、それでもやっぱりぶっとび方に少女らしらさがないような気がする。

 それからもうひとつ、海女たちの乳競べのシーンも妙だ。海からあがった海女さんたちが身体をかわかしながらどの乳が良いの悪いの、など言い合ってる中に初江もおり、その場の者が満場一致でこの乳房は男を知らない、と納得するのである。
 乳房にそんなに一目瞭然の判別機能はないんじゃないかなあ、という疑問がある。顔と身体を隠して乳房だけで年齢順に並べよ、ということならできるだろうし、それで経験値の判断がだいたいできるという理屈ならまだしもわかるが、年端もいかない女子が処女かどうかを一目見て誰もがわかるなんてことがあるんだろうか。
 そのうえ初江もそうやって自分の性経験と肉体がほぼパブリックなものとして扱われることにさほど抵抗した様子はないのだ。そんなことってあるものか。見られるのが恥ずかしいのか恥ずかしくないのか、どっちなんだ。

 島民全員顔見知りという環境だと性にまつわる感受性も私の想像できる範囲とだいぶ違うのかな、と納得するのがひとつの方法ではある。
 ところが全然別のことを思いついてしまった。初江は、そもそも私に想像つくような存在ではないのじゃないか。この健康な肉体と道徳的な魂を持った見目麗しい乙女は、三島由紀夫その人なんじゃないか。崇拝者に焚火を飛ばせたり、すこしもじもじしながら肉体美を賞賛されたりしたがっているのがミシマだとしたら、一気に合点がいく。
 「そうかミシマか…」そう思ったらわだかまりも解けて一気に甘美で夢見心地の小説になった。

 

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