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小泉 信三 『読書論』【基礎教養部】[20230731]

本書は小泉信三の読書に対する私見や読書をする際の心構え、筆者自身の読書体験について述べられた本である。二十歳頃の私であれば本書を読んで感銘を受ける箇所も多々あったように思う。しかし三十歳になった今、本書から感銘を受ける箇所はほとんど無かった。

この変化はなんなのだろうか。
もちろん当時の私よりも今の私は多くの読書体験、思考体験をしてきたというのも一つの要因であると思う。
しかしこの変化の最も大きな要因は今の私が言語の限界に気づいてしまったこと、またそれに起因して言語そのものよりも言語化できないこと(体験等)に興味が向いているからだと感じる。

本書で述べられるような読書論、つまり読書をする前段階での読書に対する考え方、取り組み方、そういったモノを情報としてインプットすることと実際に本を読む中で難解な内容を理解しようと格闘したり、あるいは長編小説や哲学書を読むために多くの時間を割いたりすることの間には「体験」として絶対的な壁がある。
つまり本書の内容(情報)をインプットすることよりも、本書を読むという体験そのものの方が本質的には自分自身の読書に対する考えを構築することには作用する。
こう考えてみると言語そのものの持つ情報量は体験や言語化しきれないモノ(人の態度や感情、その場の雰囲気や空気)の情報量と比べるとあまりに少ないことが改めて分かる。

我々現代人はあらゆるモノを自身のコントロール下に置こうと苦心してきた。
暑い夏には冷風を、寒い冬には温風を科学の力で出すことで人間が快適と感じられる温度での生活をどの季節でも過ごせるようにしたし、天候に関係なく今日食べていた食料は明日も食べることができる。昨日就寝したベッドが今日は洪水で流されているということも無く、昨日も今日も明日も快適なベッドの中で眠りにつくことができる。
電車はダイヤ通りに運行するしそれが乱れることは異常事態だと感じる。
人間の予想通りに世界が動いていくこと、そちらの方が異常だという感覚をどれだけの人が持てるのだろうか。

体験はコントロールできない要素が大きい。現代社会で売りに出されている「体験」はそのほとんどが既に運営側からパッケージ化されているモノで、視覚や聴覚等の単一の感覚器官で受け取る情報ではなく複数の感覚器官を通して得る情報として成立はしているものの不確定要素や偶然性は極力排除されている。
しかし体験とは「体」という文字が示す通り我々の身体性に紐付いた情報群のことであり、つまりそれは一回性や偶然性にかなりの部分でコントロールされることを意味する。
その体験の中では人は否が応でも「自分」というモノを意識することになる。この世界の一回性や偶然性の根源は自分自身なのである。体験はそのことをその偶然性の連続の中で思い出させてくれる。
私が私であることに理由なんか無い。日頃ニュースになっている悲しい事件の被害者が私ではなかったことに明確な理由などない。
もっと言えばその事件の加害者が私ではなかったことにも明確な理由などないのだ。

もしあなたが自分でコントロールできる情報ばかりで身の回りを固めているとして、私はそれに対してとやかく言うつもりは無い。
偶然性や未知というものは本来人類にとっては恐怖の対象であり、これまでの人類の歩んできた歴史はその偶然性や未知の排除の道のりと言っても過言ではないだろう。
だから私もあなたも偶然や未知が怖いのは当たり前で、我々はそういう風にできているのである。

しかし突き詰めて考えてみると、我々の人生そのものが壮大な偶然で、体験なのである。それに対してコントロールできる情報でガチガチに固めてもそれは砂上の楼閣である。
もし私が「人生論」という本を出版するとすればこの部分は間違いなく本の中に書くだろう。
しかしそれを本という媒体の中の言語という情報として人に伝えることに、一体どれほどの意味があるのだろうか。

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