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変換人と遊び人(17)(by フミヤ@NOOS WAVE)

~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~

“遊び”のフラクタル性について⑭

ホイジンガがその主著『ホモ・ルーデンス』で明らかにした “人類の営為はすべて“遊び”に還元される”という結論は、一人ひとりの個人(=「私」)の営為とその一人ひとりの「私」で構成される人類全体の営為は互いにフラクタルな関係にあることを示すものだ。

これまで「“遊び”のフラクタル性について」というシリーズタイトルを掲げて述べてきたのもそんな認識に基づいてのことだが、それだけではない。彼の結論に見出されるフラクタル性は、ヌーソロジー的空間認識(4次元認識)によって次元を跨いで拡張され得る、いや、必然的にそうならざるを得ないという考えが我が胸の底に潜んでいるからでもある。つまり私は、 “遊び” のフラクタル性はこの時空内にとどまらないとみる。言い換えれば、その根源4次元空間の≪ワタシ≫の営為(=≪アソビ≫)にあり((10)参照)、したがって≪アソビ≫こそが宇宙において最も神聖で根源的な営為であるという認識((4)参照)なのだが、これを明示するためにクドクド述べてきたというわけだ。

稀代のオランダ人学者は、上記の結論に伴って、「聖事といえどもその本質は“遊び”にほかならない」(5)参照)という見解も披露している。常識的な価値観からすれば不遜、不敬にして不謹慎きわまりないこの指摘は、もともとプラトンがその最後の対話篇『法律』で示していた「“遊び”と神聖なるものとの同一化」(6)参照)を拡張・敷衍したもの。つまり地上の人間の営為の本質は“遊び”であり、したがってそれは本来的に神聖かつ根源的なのだ、という認識はプラトンからホイジンガに受け継がれたものでもある。これには、私自身も心からの共感を禁じ得ない。

とはいえ、ギリシアの哲人からバトンを受け取った格好のホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を発表してから間もなく100年となる現代に至っても、そんな考え方が人々の間に浸透しているようにはけっして見えない。(6)において私は、プラトンの代弁者たるアテナイからの客人の台詞、すなわち、

「神の何か玩具として工夫されたもの」としての人間は「遊びを楽しみながら、その生涯を送らなければなりません」

という発言と、これに対してスパルタのメギロス「わたしたち人間の種族を、あなた、ずいぶん貶められるのですね」と異を唱えるくだりをご紹介したが、現在もなお、「遊びを楽しむ」こと自体を侮蔑の対象にするメギロスと同様の考え(以下、メギロス的認識と記す)に世界中が覆われていると言っても過言ではない。

期せずして(あるいは期してか?)そんな時代に誕生したヌーソロジーでは、覚醒期に入った2013年以降、人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへのシフトが進行するとされる。無限遠点に息づく≪ワタシ≫こそ「ほんとうのわたし」だという確固たる認識((11)参照)は変換人型ゲシュタルトの基盤要素になるだろうが、そんな≪ワタシ≫認識が獲得されれば、「玩具」と呼ばれようがディスプレイ上の「アバター」扱いされようが、憤りに駆られることもあるまい。なんといっても、「ほんとうのわたし」は「玩具」や「アバター」扱いされる方ではなく、それらを用いてプレイしている≪ワタシ≫の方なのだから(注:英語のプレイ(play)“do”に似てさまざまな営為を表すが、「遊ばせ言葉」(7)参照)に即して述べたように、やはり日本語の“遊ぶ”に重なる)。

一方、人間型ゲシュタルトはこれまで、「私たちは3次元空間の中に生きている」という通常の空間認識やそれから生じる「物質という概念、そしてそれらを前提に形成され、常識として根づくに至ったさまざまな固定観念、先入観や思い込みなどに支えられてきた。“遊び”を貶めて軽視するどころか、毛嫌いして唾棄しようとするメギロス的認識もそんな常識のひとつ(と私はみなす)。したがってそれを反転させることは、人間型ゲシュタルト解体に向けたひとつの突破口になり得ると思うのだが、どうだろう。

もとより“遊び” “遊ぶ”という語・概念にはメギロス的認識が染みついているので、これをひっくり返すのは容易ではなさそうだ。それでも、反転させる道筋に光明がないわけではない。プラトンからホイジンガに受け継がれた上述の観点に共感を覚えるのは、必ずしも私のようなヒネクレ者や天邪鬼ばかりではないからだ。それは(4)でも触れたように、比較文化論や文化人類学などの学術分野で『ホモ・ルーデンス』が古典中の古典として扱われているという事実からも明らかであり、反転の下地はすでに整っているといえなくもない。あとは彼の論にヌース的空間認識を照射して再編集すれば、常識化しているメギロス的認識反転は一挙に進むはず・・・・・・という考えは甘いだろうか(アリが100匹以上たかるほど甘いかもw)。

そういえば感性で紐解くヌーソロジーにおいて、著者のnatan さんこと細田奈々さんは、こんな見解を示されている。

「ヌーソロジーには、これまでさまざまな分野において獲得、蓄積されてきたありとあらゆる知見を統合できる可能性がある」(第四章、p.98)

これはきわめて示唆的かつ刺激的なご意見であると同時に、見事に正鵠を射た指摘だと私は思う。ヌーソロジーは本来的に、こうした巨視的視座にフィットする哲学に相違ないのだから。そこで、著者のご慧眼にしたがって、ヌーソロジーが既存の「あらゆる知見を統合できる可能性」をもつという視点に立つならば、現状は上記の限られた分野にしか紐づかないホイジンガの論の再編集など、どうというハナシではなくなりそうだ。いわんや、ちまちましたメギロス的認識反転など、取るに足らないことのように思えてくるから不思議だ(少なくとも、たかるアリの数の減少は期待できそうだ)。

というわけで遊び人フミヤとしては今後も人間型ゲシュタルト解体の突破口(それこそアリの一穴かw)に向けて邁進していきたいと思うが、とりあえず「“遊び”のフラクタル性について」シリーズは本稿で締めることとする。そして次のシリーズでは、序(1)に記しておいた我が思い、「ヌーソロジーほど実生活の役に立つものはない」の真意と詳細を明らかにするつもりだ。キーワードは、八百万の神々の台詞「あはれ、あなおもしろ」(15)(16)参照)に基づく“遊び”の本質、「面白さ」である(そういえば、少し前のメルマガの末尾には、「面白くなきゃ、ヌースじゃない」という半田さんのひと言が記されていたように思うw)。

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