見出し画像

変換人と遊び人(15)(by フミヤ@NOOS WAVE)

~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~
“遊び”のフラクタル性について⑫

最後の案内人を務めてくれたのは「天岩戸(アメノイワト)からお出ましになった天照大御神(アマテラスオオミカミ)だった」などと思わせぶりをかましてしまったが(前稿)、以下、その詳細を・・・・・・。

万葉仮名(於茂志呂、於毛志老、於茂志呂之、於毛志老志など)で記される「おもしろ(し)」という大和言葉自体は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの上代文献に少なからず見出せる。しかしそれらの用例をいくら調べても、“「人を夢中にさせる力」に関連する要素をもつのか?”という前稿の問いへの明瞭な答は容易に導きだせない。

「人を夢中にさせる力」とは、人をなにかに没頭させる力のことだろう。あるいは、時が経つのも忘れるほどの没我状態に導く要素だとも言える。たとえば、男女のアツい恋愛や交合が人を没我に導くことは言わずもがな。眼前の相手に「夢中」になった経験は誰にもあるだろうし、幼児のかくれんぼや鬼ごっこはもとより、映画や舞台の鑑賞、スポーツ観戦、読書、各種のゲームや博打、さらには育児や仕事さえ、この要素と無縁ではない。なにかに夢中になり、気がつけば日付けが変わっていたということは誰にでもよくあるだろうし、かくいう私も時間はおろか、寝食すら忘れて徹マンに興じた日々は数えきれないほどある(笑)。

「おもしろ(し)」はそんな力や要素にダイレクトに紐づくにきまっている。そして、それを示すエビデンス用例は上代文献にいくらでも見出せる・・・・・・。そう想定していたからこそ私は、ホイジンガが指摘した「アールディヒヘイト(aardigheid)」に対応する日本語の「面白さ」「面白い」という語・概念が「ほんとうに根源的」か否かを判定する基準を上記の問いに絞り込んで“キメ打ち”することにしたわけである。

ところが、その明瞭な証拠はなかなか見つからないのだ。目算が外れたということか?しかしキメ打ちした以上、この問いから逃げるわけにはいかない。さーて、困った。どうしたものか・・・・・・。これではまるで、「勝つのはこの馬だ!」と単勝一点にキメ打ちしたのに、玉(ギョク)がないために馬券を買えないのと同じではないか。

そんなアポリア(行き詰まり)に陥った私に助け舟を出してくれたのが、じつは古語拾遺という文献と、そこに記された「岩戸開き」シーンだった。

神話伝承の内容は概して記紀に重なるとはいえ、記紀万葉からおよそ90年後の800年代初頭(平安初期)に成立した『古語拾遺』には独自の内容もあり、そのためか、神道ではきわめて重視されているという。そして助け舟になってくれた箇所も記紀にはない独自の部分、すなわち、アマテラスがアメノイワトから姿を現した「岩戸開き」に際して八百万(やおよろず)の神々が口にした台詞だった。

ご存知の方も多いだろうが、ここで、「岩戸開き」に至る経緯を簡単に記しておこう。

弟のスサノオが高天原で乱暴狼藉をはたらいたために、アマテラスはアメノイワトに隠れてしまった。世界が真っ暗闇になって八百万の神々は困りはてたが、アメノウズメが岩戸の前でトップレスのセクシーダンスを踊る様子を見て、みなは思わず笑いさざめいた。するとアマテラスは、「日神の私が隠れているから、世界は真っ暗で神々は困っているはず。でも、外ではみなワイワイ騒いでいるみたい。これは、いったいどういうこと?」と訝しみながら岩戸を開き、その姿を再び外に現した・・・・・・。

『古語拾遺』によれば、その瞬間、八百万の神々は互いに顔を見合わせて、口々にこう叫んで喜びあったという。

「阿波礼、阿那於茂志呂」(あはれ、あなおもしろ)

この場面の原文と訓読文は、以下のとおり(岩波文庫版『古語拾遺』より)。

当此之時、上天初晴、衆倶相見、面皆明白。伸手歌舞。相与称曰、阿波礼。阿那於茂志呂。
<この時に当たり、上天(あめ)初めて晴れ、衆(もろもろ)倶(とも)に相(あひ)見て、面(おも)皆(みな)明白(しろ)し。手を伸(の)して歌ひ舞ふ。相(あひ)与(とも)に称曰(いは)く、阿波礼(あはれ)。阿那於茂志呂(あなおもしろ)>

このくだりは神社や宮中における御神楽(おかぐら・みかぐら)神楽歌(かぐらうた)の起源とされているが、上記台詞のキーポイントは、「(あな)おもしろ」「あはれ」を受けた格好になっている点にある、と私は考える。「人を夢中にさせる力」がそこに見出せるからだ。「え?それ、どういうこと?」という声が挙がりそうだが、後述する「あはれ」の本義(意味の根幹)に基づけば、容易に頷けるはず。しかしその前に、ヌーソロジー概念を援用しつつ、「おもしろ(し)」に関する認識を整理しておこう。

老舗出版社の『古語大辞典』の多くは、この八百万の神々の台詞にある「於茂志呂(おもしろ)」がその前段の「面皆明白(おもみなしろし)」の一節に対応していることを踏まえて、その本義を「目の前がパッと明るくなる感じ、心が晴れやかになる感じ」などとしている。一方、折口信夫「オモシロ(面白)=オモシル(面知)の形容詞化」という考えの下に、「顔を知っているというほかに、なじみ深い、なつかしいといった義がある」という興味深い説を示している。しかし私たちにとって重要なのはそのあたりではなく、「面白し」「面白い」というテキスト表現における「面(おも・メン)」「人間の外面」「知覚正面」「面」にほかならない、ということだ(この認識は、以下で「あはれ」の本義に触れる際のキー要素になる)。

というわけで、「あはれ」である。

「あはれ」といえば、江戸後期の本居宣長以来、日本文化における美意識や価値観の真髄、あるいは日本精神(やまとごころ)の規範とされてきた「もののあはれ」という語・概念に結びつくが、本稿では、それ以前に「ものあはれなり」という動きを伴う語(文法的には形容動詞)があったことに留意しておきたい。

ここで再び各種『古語大辞典』の頁を繰ってみれば、小学館版は「あはれ」について、「感動から自然に発する声に起源を持ち、まず感動詞として成立」したと記したうえで、なんと、「心を動かすことに重心があり」「客観的対象と結合した感情を表出する」語であると指摘している。さらに角川書店版に至っては、「対象と一体化して」感動すること、そして「対象と距離をおいたところで生ずる感情とは異なり、対象との深い合一感・一体感によって生ずる感動」を表すのが本義だとしており、私は思わず、「なんだこれ?ヌース用語辞典かよ!」と声を挙げそうになった(笑)。加えて角川は、「もののあはれ」の定義を↓のように記す。

「人がいっさいの先入観念や知識を排して外界の事物に対するときに、その事物自体によってもたらされるはずの喜怒哀楽や好悪などの自然で純粋な感情」

編纂にあたった国語学者のご苦労が偲ばれるというか、それが滲みでたようなややこしい定義(笑)ではあるが、ここにもヌースに近似するテイストを感じるのは私だけだろうか。とくに「いっさいの先入観念や知識を排して外界の事物に対する」という姿勢は、「外面」「知覚正面」を前にする私たちにとって、きわめて重要なポイントのような気がするが、どうだろう。

いずれにしても、「あはれ」の根幹には「対象との合一・結合による一体化」があるとみていいだろう(なにしろ、錚々たる国語学者たちが揃ってこの点に言及しているのだ)。心を動かすことで自らが「対象(もの)と一体化」し、その際に生じる自然で純粋な感慨が「あはれ」という語に凝縮表現されているというわけだ。そして心が動くことで「対象(もの)と一体化」する様子を表すのが上述した「ものあはれなり」であり、宣長がフォーカスした「もののあはれ」は、その名詞化表現ということになる。

さて、上で私は、「人を夢中にさせる力」のことを「時が経つのも忘れるほどの没我状態に導く要素」としたが、この没我とは、文字どおり「我(われ)が眼前の対象の内に埋没」すること、つまり対象と結合して「一体化」することにほかならない。ヌース的に言えば、

主体(主語)が知覚正面=前のもの(者、物)と一体化して「主客一致」の状態になること

となろうか。したがって「あはれ」(及び「ものあはれなり」「もののあはれ」)は、「対象(もの)との一体化」によって「人を夢中にさせる力」に深く紐づいた語なのである。のみならず、これらの語は、「主客一致」という概念がキモ要素のひとつであるヌーソロジーそのものにとっても、きわめて重要なキーワードに違いない。翻って言えば、これらの語が本来的に指し示しているのは、ヌース概念そのものだった!ということになる。

そういえばサロンの量子力学講座で砂古教授は、相補的関係にある「面」と「自(身)」の一体化をハイデガー的に「脱自」と表現され、そしてそれらの間の相補性を蝶番(ちょうつがい)的に媒介するのが「存在」だと説明されたが、むべなるかな!である。したがってホイジンガがいう「人を夢中にさせる力」とは、教授の言をお借りして、機能としての「存在」の力だと言ってもいいだろう。さらに敷衍して、機能としての「存在」の力の顕現を表す語が「あはれ」だったとも言えよう。「だった」と過去形を用いるのは、いまやその本来的な意味(原義)は、ほぼ失われたに等しいからだ(これについては、稿を改めて述べる)。

というわけで、八百万の神々の台詞に戻ろう。台詞にある「(あな)おもしろ」「あはれ」を受けた格好になっていることを上で指摘したが、これは、主体が「対象(もの)と一体化」するというそのこと自体が「(あな)おもしろ」という感慨をもたらした、ということだ。つまり「(あな)おもしろ」は、「あはれ」が示す「対象(もの)との一体化」を経験した主体からダイレクトに生じる感慨であり、その主体はすでに「主客一致」状態にある。換言すれば、主体はもの(者・物)側にいるということだ。

そんな「主客一致」状態にある主体から生じる感慨は「目の前がパッと明るくなる感じ、心が晴れやかになる感じ」かもしれないし、「顔を知っている、なじみ深い、なつかしい感じ」かもしれないが、いずれにしても、それこそ「面白い」ことなのだ。したがって現代の日常語「面白い」には、そんな上代(あるいは神代か?)の「あはれ、あなおもしろ」から脈々と受け継がれてきた精神が宿っているに違いないのである。

以上で私としては、「おもしろ(し)」「人を夢中にさせる力」に関連する要素をもつのかという問いに解を導くことができたと同時に、「アールディヒヘイト(aardigheid)」に対応する日本語の「面白さ」「面白い」という語・概念が「ほんとうに根源的」か否かを判定する基準をクリアできたと考える。それもこれも、「天岩戸(アメノイワト)からお出ましになった天照大御神(アマテラスオオミカミ)」が最後の案内人を務めてくれたおかげである・・・・・・と記して、「思わせぶり」にオチをつけたい(笑)。

・・・・・・とオチをつけた後に余談ではそれこそ落ち着かないが、以下、余談である。

本稿では「あはれ、あなおもしろ」を文献どおり八百万の神々の台詞として扱ったが、じつは私は、この台詞はアマテラス自身のものでもあるような気がしてならないのである。つまり、岩戸から出て外を見た瞬間(まず目に入ったのはフトダマノミコトが用意したヤタノカガミに映った自身の顔ではあるけれど)、アマテラスも八百万の神々と同じように「あはれ、あなおもしろ」と叫んだのではないか・・・・・・ということだ。

そんな気がするのは、かなり昔から親しんで口ずさんでいたこの歌(⇩)の影響かもしれないが(「あれー」と叫ぶ声はアマテラスが発した声を模しているだろうし、「あれー」は「あはれ」に違いないのである)、必ずしもそうとは言い切れないようにも思える。しかしまあ、とりあえず、ご高齢者の方はもとより、私のような後期青年者にとってもきわめて懐かしい歌をお聴きください(平成生まれの方は、「この回っている黒い円盤はなーに?」となるかもw)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?