変換人と遊び人(16)(by フミヤ@NOOS WAVE)
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~
“遊び”のフラクタル性について⑬
私たちの日常語「面白い」には、上代(または神代)の「あはれ、あなおもしろ」から脈々と受け継がれてきた精神が宿っていた!さらに、「あはれ」という語が本来的に表していたのはヌース概念のキモ要素だった!・・・・・・ということをアマテラスの導きのおかげで示し得た(前稿)ように思うが、どうだろう。「それって、いわゆる牽強付会っていうヤツじゃね?」という声も挙がりそうだが、私はけっしてそうは思わない。
それどころかむしろ、「日本語だけが付帯質を前にもつ」というオコツト情報(本論(14)参照)が的を射ていることを現場からの帰納に続いて演繹的にも示し得たのではないかという気さえする。というのも、少なくとも「対象との合一・結合による一体化」を根幹に有する語「あはれ」は、「もの」側にこそ主体がいることを端的に表しているように思えるからだ。
また前稿で私はナマイキにも、“機能としての「存在」の力の顕現を表す語が「あはれ」だった” とも述べた。「だった」と過去形で記したのは、いまやその本来的な含意(原義)は失われたも同然だからだが、以下、そのへんについて少々・・・・・・。
『古語大辞典』(小学館)には、こんな記述がみえる。
後世、“あはれ”といえば非哀感を表すようになったが、古代・中古には、その感動の幅はかなり広く、嬉しさもあれば美的感動もあった。その中で、非哀感の用例がしだいに多くを占めてゆく。そうして、力強い感嘆や賞美には、促音化した形「あっぱれ」が用いられるようになる。
古語辞典の類は概して似たような見解を示すが、要は「あはれ」の原義は忘れ去られ、これも「対象との一体化」に由来する情緒とはいえ、悲哀・憐憫のみを表す語に堕してしまったということだ(本来的「あはれ」は、いつしか限定的-その意味では非本来的-「あはれ」にシフトしたともいえよう)。「もののあはれ」にフォーカスした本居宣長の時代(江戸後期)においてすでにそれが顕著だったことは、彼が「あはれといふに、哀の字を書きて、ただ悲哀の意とのみ思ふめれど・・・・・・」(『源氏物語玉の小櫛』)と記していることからも了解される。
そういえばNOOS WAVE にご協力いただいている武蔵野学院大学・高橋学長(兼ヌーソロジー研究所副所長)も、刊行されたばかりのご著書『今まで生きづらかった人こそ「これから」うまくいく』において宣長の「もののあはれ」論を引きつつ、これからの「風の時代」には「頭と心の連動」が重要だと主張されている。読者がスピナーズならこれを「思形と感性の連動」のことと了解したうえで、「ヌースを通じて、いまいちど本来的あはれの精神を取り戻そう!」というメッセージとしてこの主張を受けとめることができよう。というわけで本書は、一般の前期・中期青年層が主ターゲットかもしれないが、私のような後期青年にとってもきわめて示唆に富む著作であることから、スピナーズのみなさんにもぜひおススメしたい。なお、学長は動画でも宣長と「もののあはれ」に即して「頭と心の連動」を説明されているので、こちらもご参考にどうぞ(⇩)。
いずれにしても、「あはれ/もののあはれ」という語・概念はヌーソロジーのキモ要素に深く紐づいていると考えられるのだが、いかんせん、その本性は次元をまたぐ精神(あるいはイデア)としての「ことば(コトノハ、コトダマ)」でありながら、それが時空に射影された時空限定の「言語」というものの構成要素でもあるからには、「歌は世につれ」の「歌」のように、その含意も「世につれ」て経時的にうつろいでいくことは免れない(世間一般では、「ことば」と「言語」はほぼ同義的に用いられるケースが少なくない。しかし私は前者を精神そのものと捉える一方、後者を時空限定、幅限定の意思伝達/疎通手段や表記/表現/記録手段であると考え、明確に使い分けることを心がけている。「ことば」は、周波数・振動を伴う音として発話されたり、文字や記号として表記・表現されたりした時点で「言語」になる・・・・・・。そんな多少パラノイア的(笑)考えなのだが、ヌーソロジーとの整合性は要検証かもw)。
唐突だが、ここで、俗語「ヤバイ」を取り上げる。
この語は江戸時代の「矢場」(射的場)という遊興施設に由来するが、その場所はお役人のガサ入れ対象になりがちだったため、「やば」といえば困った状況、ネガティブで不都合な事態を指し、隠語として用いられるようになった。それが現代まで受け継がれてきたわけだが、近年はポジティブな含意で用いられるケースが増えているという。しかしネガティブ用法も健在なので、現在、この語はネガポジ兼用の二刀流なのだ。
「売上高が半減の見通しだってさ。我が社ヤバイよね」という用法もあれば「売上高が過去最高の見通しだってさ。我が社ヤバイかもね」もありというワケだから、文脈によって意味がガラリ一変する文脈依存語だともいえる。では、そんな正反対のニュアンスをもち得る「ヤバイ」の原義、つまり本来的に表すところはなにか?
この問いに答えるには、角川が「もののあはれ」に与えた定義文(前稿)にあった、「いっさいの先入観念や知識を排して外界の事物に対する」ことが求められる(ヌース的には、「外面」「知覚正面」に接する際の望ましい態度といえようか)。こうした態度はフッサールの現象学やマックス・ウェーバーが唱えた価値自由(「いかなる価値からも離れる(=free from value)」の意)という概念などにも重なるが、要は、先入観や価値観をいっさい伴わずにありのままを見る、ということに尽きる。そんなスタンスをとれば、「ヤバイ」という語が本来的に指し示すのは、ネガでもポジでもなく、ただ単純に「常ならざること」、「異常な状況」であることが直ちに浮き彫りにならないだろうか。
これと同じような態度で現在の限定的かつ非本来的用法に堕した「哀れ・憐れ」にあらためて接してみれば、「対象との合一・結合による一体化」をベースとする本来的あはれの精神が立ち上がってくるに違いない。これこそプラトンのいう想起(アナムネーシス)であると同時に、高橋学長が仰る「頭と心の連動」でもあるといえるだろう。
というわけでいまはまさに、本来的「あはれ」の精神を取り戻すべきタイミングが到来しつつあるのかもしれない。そして八百万の神々の台詞「あはれ、あなおもしろ」にみたように、それをダイレクトに受けた「面白い」(ホイジンガ指摘の”aardigheid”)という“遊び”の本質に対する再評価もなされて然るべきだと私は思う。