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変換人と遊び人(5)(by フミヤ@NOOS WAVE)

~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~
“遊び”のフラクタル性について②

「“遊び”が最も神聖で根源的な営為である」と言ってしまったが、もし世間に向かって大声でそんなことを主張すれば、ブッ飛んだトンデモ説として糾弾されるに違いない。しかし私は心の底から、真剣にそう認識している。だからいささかも「ブッ飛んでいる」とは思わないのだが、いわゆる常識からかけ離れていることは承知している。

というわけで、ここからは、そんな我が認識の背景を説明することとしたい(一連の記述を通して、シリーズタイトルに掲げた「“遊び”のフラクタル性」の意味も明らかになるはずだ)。

まずは「“遊び”が最も神聖で根源的な営為である」というフレーズにおける「“遊び”の神聖さ」についてだが、これに続く「根源的」であることの説明がヌーソロジーベースになるのに対して、こちらはヌースを持ち出さなくとも、とりあえずホイジンガ絡みだけで充分に説明がつく。

日本はもとより世界各地には、それぞれ古代から伝わる伝統的な土俗信仰や各宗教に基づく祭祀や儀式・儀典の類がある。これらはそれぞれの国や地域、土地においてきわめて“真剣”、“厳粛”、“真面目”、“誠実”、“一生懸命”に行われてきたし、今後も行われていく“神聖”な行事、すなわち聖事である。たとえば日本の皇室には、「剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)」や近年話題になることが多かった「納采の儀(のうさいのぎ)」など、数えきれないほどの聖事があり、それらがいかに厳粛な雰囲気の下で真剣に行われるものであるかは誰もが知っている。

ところが、三十種類ほどの言語に通じるポリグロット(多言語使用者)だったホイジンガは、自身のフィールドワークと研究を通じて、世界中の歌舞、演劇、祝祭、詩文、競技、建築その他のさまざまな文化様式がそれぞれの国や地域の聖事に端を発するものであることを明らかにしただけでなく、それらを産み出す母体となった各地の聖事それ自体の起源もすべて「“遊び”にある」こと、つまり聖事といえども「その本質は“遊び”にほかならない」とする結論を『ホモ・ルーデンス』で示している。

要は、教会や聖堂など、神聖とされる場におけるさまざまな儀式(礼拝や祝祭のみならず葬儀や婚姻に関連するものを含む)や上述した日本の皇室に伝わる伝統的な「~の儀」などの本質もすべて“遊び”が起源である、というのがホイジンガの主張だ。私もまったく同感である。皇室における「~の儀」が“遊び”だなどと言えばウヨウヨ系の方々から袋叩きにされかねないが、本論に接するみなさんは「右」も「左」も容易に等化し得るスピナーズだ、ウヨウヨもサヨサヨもないに違いない(多少は眉をしかめる向きもあるかもしれないが)。

話はそれるが、じつは私が同書(中公文庫・旧版)に初めて接したのは高校三年生の年だった。当時は書かれている内容のほとんどが難しくて理解不能だったにも関わらず、衝撃的な結論の主旨だけは容易に把握できたうえに、ナマイキにも、「あー、なるほど!そういうことだったのか!」と、思わず膝を打ったことを覚えている。それ以降も多年にわたって何度か読み返したが、高校生の時に覚えた感慨と共感はなにひとつ変わらない。いや、むしろ年を経るごとに、その結論が持つ意義の大きさに対する理解が深まったように思う。

オランダ最古の学府たるライデン大学の学長まで務めたとはいえ、ホイジンガはナチス批判のかどで強制収容所に収監されたこともあり(どこかの「井の頭事件」関係者のようだw)、けっして一介のありきたりの学者ではなかった。そんな人物だからこそ、各地域で厳粛に行われてきた伝統的聖事をも含む、これまで人類によって構築、形成そして洗練されてきた多様な文化のすべてが“遊び”にほかならないという論を堂々と開示し得たに違いない。

しかし彼は『ホモ・ルーデンス』の「まえがき」において、「いまこれを書くか、あるいは全然何も書かないかのどちらを選ぶか」(高橋英夫訳)という葛藤があったことを吐露したうえで、「書くとは、私の胸にしきりにうったえてくることを、である。こうして、私は書いたのだ」(同)と記している。「まえがき」のこの部分に顕われた気分を現代日本語の口語に“超訳”すれば、こんな具合になるだろうか。

「長い年月にわたってずーっと胸にしまっておいたんだけど、やはりこれは書かずにはいられないんだよなぁ。世間がなんと言おうと、学者としての立場や評判がどうなろうと、知ったこっちゃないよね。俺としては、これを書かずに死ぬわけにはいかないんだから仕方ないよなぁ。えーい、もう、あとは野となれ山となれだっ、開き直るしかないぜ!そんなわけで俺は、あーあ、とうとうホントに書いちゃったよ~( ノД`)」

田舎のひねくれ高校生も、葛藤に怯(ひる)むことなく大胆きわまりない論を開示したこの肝の据わった学者のスタンスにはいたく感服したというわけだ。

さて、「“遊び”の神聖さ」である。“遊び”が神聖な営為である、とはどういうことか。この「神聖」という概念は本来、「場」に直接紐づくのではなく、その場を仕切ったり支配したり君臨したりする主体にこそ紐づく(場に紐づけられるのは、あくまでその結果である)。したがって、「“遊び”は神聖な営為だ」と言う場合は、当然その“遊び”の主体、すなわち“遊ぶ”のは誰か?と、その主語が問われることになる。

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