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変換人と遊び人(6)(by フミヤ@NOOS WAVE)

~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~
“遊び”のフラクタル性について③

さて、以上を受けて、“遊び”の主体、すなわち“遊ぶ”のは誰か?と、その主語に関連する話になる。

唐突だが、ここでプラトンを引用する。哲人が文字どおり「書きながら死んだ」とも言われている、彼にとっては最後の(そして形としては未完の)対話篇『法律』第七巻からである(翻訳は岩波文庫版による。なお、この対話篇は、プラトン自身の代弁者とされる「アテナイからの客人」クレタ島のクレイニアス及びスパルタのメギロスという三人の人物の間のやりとりだ)。文脈を無視した引用になることをお赦し願いたい。

アテナイからの客人:わたしの言う意味は、(中略)神はすべての浄福な真剣さに値するものであるが、人間の方は、前にも述べましたが、神の何か玩具として工夫されたものであり、そしてじっさいこのことが、人間にとって最善のことなのだということです。ですから、すべての男も女も、この仕かたに従って、できるだけ見事な遊びを楽しみながら、その生涯を送らなければなりません、現在考えられているのとは正反対にね。

これに対してクレタ島のクレイニアスが「どういうふうにですか」と訊ねると、アテナイからの客人は事例を挙げて説明したうえで、最終的にやはりこう告げる。

アテナイからの客人:では、正しい生き方とは何でしょうか。ひとは一種の遊びを楽しみながら、生涯を過ごすべきではないでしょうか。

対話篇『法律』からの引用はここまでとするが、上のやりとりのあと、「神の玩具」という言い方が気に入らないスパルタのメギロスが「わたしたち人間の種族を、あなた、ずいぶん貶められるのですね」とアテナイからの客人に向かって不満を漏らすのに対して、プラトンの代弁者たる彼がけっしてそうではないことを丁寧に説明するくだりが続く。

先のアテナイからの客人の発言にある「現在考えられているのとは正反対にね。」という一節は、プラトンの時代(約2500年前の古代ギリシア)でもすでに“遊び”が社会的に貶められていたことを示しているが、それはさておき、上記引用によって、本論にもいよいよ神がご登場あそばしたことになる(笑)。ここにいたってスピナーズのみなさんには、シリーズタイトルにある「“遊び”のフラクタル性」という奇妙なフレーズの意味するところが、ぼんやりと見えてきたかもしれない。しかし“遊び”と神を結びつけたプラトンを私がここに持ち出したのは、本論に箔をつけたいというあざとい意図からではなく(笑)、ホイジンガが『法律』のこの個所の記述に、哲人による「“遊び”と神聖なるものとの同一化」を見出したことを明らかにしているからにほかならない。

ホイジンガはこの同一化について、「(プラトンは)神聖なものを遊びと呼ぶことで冒涜(ぼうとく)しているのではない。その反対である。彼は、遊びという観念を、精神の最高の境地に引き上げることによって、それを高めている」と書いている。つまり『ホモ・ルーデンス』の著者は、「“遊び”という営為の主語はもともと『神』であり、したがって“遊び”は本来神聖な営為である」と主張するためのエビデンスとして、プラトンによる「“遊び”と神聖なるものとの同一化」に言及しているのである。

オランダ人学者は、プラトンの古代ギリシアのみならず、古代ローマやペルシア、アメリカ・インディアンの文化から欧州、インド、中国などに至るまでをカバーする古今東西の多様な人類の文化に類似のエビデンスを見出した。

そして彼は、なんと、日本の文化からもそんなエビデンスをピックアップしているのだ。「遊ばせ言葉」がそれである。

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