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変換人と遊び人(7)(by フミヤ@NOOS WAVE)

~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~
“遊び”のフラクタル性について④

「遊ばせ言葉」という呼称は聞き慣れないかもしれないが、これは、たとえば「おいであそばす」「お亡くなりあそばして~」「ご覧あそばせ」「ごめんあそばせ」「いかがあそばしましたか?」などのように、補助動詞として「遊ばす」が使われる用法のこと。

ホイジンガは「“遊び”の神聖さ」を示すエビデンスとしてプラトンによる「“遊び”と神聖なるものとの同一化」を取り上げただけでなく、日本の文化からも「遊ばせ言葉」をそのひとつに挙げているのである。

いわゆる文法に明るいわけではない者が言うのは僭越だが、上述の用法における「遊ばす」は、補助動詞というよりも、ありとあらゆる一般動詞に結びつく動詞基幹的な語ではないだろうか。英語でいえば、基本動詞の大元締めであると同時に、疑問文や否定文などでは動詞を受ける助動詞として機能する“do”に近いかもしれない。

以前そう思って『広辞苑』で「遊ばす」をひいてみたところ、“「~する」意の最上の尊敬語”とあった。やはり意味合いやはたらきとしては、あらゆる一般動詞(be動詞以外)を支える動詞・助動詞としての“do”なのである(“do”には尊敬も謙譲もないけれど)。したがって「遊ばす」が“do”と異なるのは、その主語が、概して神仏や敬意の対象となる人物になる点だけだろう。

日本ではついこの間まで(といっても昭和までか)、町なかの小料理店でも「今日はわざわざお越しあそばしまして~」という挨拶が来客を相手に行われていたものだが、残念ながら、最近は滅多に耳にすることはない(皇室や宮内庁あるいは神社仏閣などでは健在だろうが)。とはいえ日本語ネイティブなら、いつこの語法に接してもさほど違和感は覚えないはずだ(じつは私は、前稿の中に「ご登場あそばした」という一節をさりげなく忍ばせておいたのだがw、おそらく引っかかることなく自然にお読み頂けたのではないでしょうか)。

さて、ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』において、「日本人の“遊び”に関する考え方を詳しく規定していくと、日本文化の真髄まで考察を進めることができる」という見解を示したうえで、こう述べている(“Ⅱ遊び概念の発想とその言語表現”の章)。

日本語はいまでもまだ、遊びの発想を「遊ばせ言葉」、つまり上品な話し言葉として保ちつづけている。これは身分の高い人々相互の会話に使われるものだが、これについては、高貴な人々はその行うすべてのことを、つねにあそびとして、あそびながらやっているのだ、というように理解できよう。

この「・・・・・・というように理解できよう」という感想めいた結論は、日本人ではないオランダ人学者のホイジンガだからこそ出てきたものだろう(少なくとも彼の指摘以前に、日本人の中からこうした考えが出現することはなかった)。

いずれにしても、「遊ばせ言葉」は日本の文化における「“遊び”と神聖なるものとの同一化」を証し立てる立派なエビデンスであり、百年前に日本語のこうした語法に着目したホイジンガの慧眼には感服せざるを得ない。もっとも、これは、彼が学長を務めたライデン大学が19世紀なかばに世界で最初に日本学科が設置された学府でもあり、日本文化に関する知見が豊富に蓄積されていたことと無縁ではないだろう(ちなみに、ライデン大学はヌーソロジーとも縁の深いスピノザの活動拠点でもあった)。

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