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変換人と遊び人(10)(by フミヤ@NOOS WAVE)

~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~
“遊び”のフラクタル性について⑦

ヌース的思考を通してはじめて神の何者たるか、その所在が奈辺なのかを知ることが出来ると前稿では仰々しく述べたが、よほどのビギナーを除いて、多くのスピナーズにとってはさほど大仰なハナシではないだろう。なにしろ、次元観察子ψ5の顕在化を機に人間型ゲシュタルトを解体しはじめ、4次元認識を獲得しさえすれば合点がいくハナシなのだから。

そう、ヌース的思考に基づけば、とは、4次元空間の無限遠点にいる「ほんとうのわたし(=自己=真の主体)」にほかならないのだ。

関西ヌーソロジー研究会の川瀬統心さんは、この無限遠点に所在する「ほんとうのわたし」こそ神であるという事態をシンプルに「自分自神」と表現されている(著書『ワンネスは2つある』、ブログ『自分教』ガイド参照)。言葉遊びがベースにありながらも、これ以上ないほど的確かつ絶妙に本質を突いた、見事なレトリック表現だ。「寸鉄人を刺す」とはこのことか!とも思わせるこの「自分自神」という語には、苦労と困難の末に一神教の檻から脱し、その後長きにわたってヌーソロジーを研究されてきた川瀬さんの等身大の認識(統心大と記すべきかw)が凝縮されている、と私はみる。

そんなわけで、今後はこの川瀬用語を使わせていただこうかとも思ったが、「神の遊び」のことをダブル山括弧で≪アソビ≫と記すことにした以上(前稿参照)、それとの整合性を考慮し、主語たる神のことも同じ記号を用いて≪ワタシ≫と表記していくこととする(山括弧を重ねた≪≫は、テキストオタクの間では、格別感を醸しだすツールとして認知されているのだ。ちなみに半田さんにもタイトルに≪≫を用いた著書(共著)があるが、これはテキストオタク的編集者の示唆によるものだろう)。

では、神=「ほんとうのわたし」=「自分自神」=≪ワタシ≫としたことを受けて、これまでに引用したプラトンと白川博士のフレーズにおける「神」≪ワタシ≫に置き換えて記してみよう。受ける印象は、おそらくガラリと一変するはずだ。

まずは、(6)に引用した「アテナイからの客人」の台詞。

アテナイからの客人:わたしの言う意味は、(中略)≪ワタシ≫はすべての浄福な真剣さに値するものであるが、人間の方は、前にも述べましたが、≪ワタシ≫の何か玩具として工夫されたものであり、そしてじっさいこのことが、人間にとって最善のことなのだということです。

続いて、(8)(9)に引用した白川静博士の記述から。

遊ぶものは≪ワタシ≫である。≪ワタシ≫のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは≪ワタシ≫の世界に外(ほか)ならない。この≪ワタシ≫の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。

≪ワタシ≫は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。

如何だろう。≪ワタシ≫に置換するだけで、無限遠点にいる「ほんとうのわたし」のイメージが鮮明に浮かび上がるのではないだろうか。だとすれば、それはテキスト表記の違いがいかに人のイマジネーションの羽ばたきとその方向に影響を与えるかを物語っているだけでなく、認識の枠組み=ゲシュタルトの変容にも寄与し得ることを示しているように思う。

したがって私は、どこかで「神」と聞けば即≪ワタシ≫「神」の文字を見れば即≪ワタシ≫を思い浮かべる。神社は≪ワタシ≫社、神道は≪ワタシ≫道、スピノザの汎神論は汎≪ワタシ≫論という具合だが(笑)、旧約聖書のモーセ五書などにおける神はあくまで一神教の神であることから、≪ワタシ≫にはあたらない。だからいわゆる「神との契約」という概念は、「≪ワタシ≫ではない仮想神との契約」ということになろうか。

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