変換人と遊び人(1)(by フミヤ@NOOS WAVE)
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~序:“遊び”の価値転換に向けて①
半田広宣さんはしばしば、「ヌーソロジーが実生活の役に立つことはありません(笑)」と、ややオフザケ調で口にされることがある。
これはすなわち、ヌーソロジーには人生に“成功”や自己の“成長”あるいは“救済”をもたらしてくれそうな要素があるのではないか・・・という期待を抱く方々(そんな現世利益<げんせりやく>的要素を希求、渇望する人たち)に対する予防線的発言に違いない(ヌーソロジーにそのような要素が微塵もないことはご存知のとおり)。
しかし私はあえて言う、「ヌーソロジーほど実生活の役に立つものはない」と。
「ヌーソロジーが生活の役に立つ立たないなどと論じる資格は、こんな“遊び”にフォーカスするような文章を書く者にはない。まったくもって論外!」という声が聞こえてきそうだ(笑)。それはそうだろう、“遊び”は生活の役に立たたないどころか、それを破壊しかねない、唾棄すべき元凶的要素だという見方が一般的なのだから・・・・・・。
しかし本論は、こうした見方は人間型ゲシュタルトに基づくものにほかならないと捉え、“遊び”概念に対してニーチェ的価値転換をもたらすことを目論むと同時に、結果的に「ヌーソロジーほど実生活の役に立つものはない」という結論に導くことを意図するものだ。
というと、またしても「え?オコツトは“遊び”に関してなにか言ってたってこと?」という声が聞こえてきそうだが、それはどうだろう。「およそ頭に浮かんだありとあらゆる質問をオコツトにぶつけた」という半田さんが「“遊び”とはなんですか?」という問いを投げかけたかどうか(笑)は確認してみないことにはわからないものの、少なくとも私は本論を通じて、変換人型ゲシュタルトにおける“遊び”概念は、必然的に人間型ゲシュタルトに基づくそれを引っ繰り返すものになっていなければならないし、必ずそうなるハズだ・・・ということを示していくつもりだ。
そんな本論の意図は、ほとんどの方にとって「???」に違いないと思うが、しばらくお付き合い願えればありがたい。
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