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「人に迷惑をかけない文化」と「人に助けを求めること前提の文化」比較

6月初旬に父が退院しました。日中になかなか電話を取ることのできない兄に代わって、担当医師からの連絡などをイスラエルにいる私が受けて家族に共有しました。その中で「人に迷惑をかけない」という日本の自立観と、幼少時から「人に助けを求める」というイスラエルの自立観に大きなギャップを感じたのでそのことについて書きます。

本人からの情報が必須なのに連絡がとれない

父が手術した時、一番困ったのは本人の状態を父から聞けないことでした。入院した当初は大部屋に空きがなく個室にいたので携帯に電話がかけられたものの、ペースメーカーを入れる手術が終わって大部屋に移ってからは「談話室」からでないと電話ができず、歩行器が必要かつ点滴をつけて移動するのが困難な状態の父と連絡を取るのが一気に難しくなりました。
コロナ禍で面会は禁止されていて、親族や友人も訪問できず、深夜営業の飲食店で働く兄と両親とは生活時間が違い、なかなか直接の連絡は取れませんでした。
そんな中で退院の日程調整や迎え、介護ベッドの搬入と立ち合い、歩行器、配食サービスや必要な介護サービスの手配など、本人の状況を聞いて調整しなければいけないことが多くありました。

結局、ナースステーションに私が電話をかけて事情を説明し、担当医からの電話をイスラエルにいる私のIP電話にかけてもらうことにしたり(時差を説明して日本時間の15時以降にしてもらうことができました)、どうしても必要な場合は食事やリハビリの時間を避けてナースステーションにかけて、父からこちらに電話するよう伝言してもらったりしました。
ナースステーションにかけたら「海外からの電話!」と電話機を持って走って行ってくださる看護師の方もいて、「そんなにお気遣いいただかなくても、書け直してって伝言してくれればいいんですーー」と保留音に訴えることもありました。

父はショートステイに入所した母には気兼ねなく話せるためか連絡していて、自分が必要だと思った歩行器などの手配を、既に介護保険を利用してケアマネージャーさんに面識のある母経由で頼んでいました。しかし直接現状を見ておらず、耳も遠い母からの伝言では「どのような身体状況なのか」「具体的な用途は何か」「ベッドの手すりなど歩行器以外に配慮すべき点はないのか」などの付帯事項が確認できません。ケアマネさんも常時事務所にいるわけではないので、携帯電話の番号もあるのですが、父からは遠慮してかけようとしません。
心配してくれていた叔母も、「ペースメーカーを入れているから、電話を掛けると迷惑なのでは」と携帯には電話しなかったそうです。

父と母それぞれに連絡を取っても「お父さんから聞いている」「お母さんに言ってある」「お兄ちゃんには言ってある」の連続で、具体的な様子や決定事項が見えて来ず、退院前にどうしてもケアマネさんと現状の把握をしたくてZoomでビデオ会議をすることにしました。

ビデオ会議の結論「本人とケアマネさんが直接電話して大丈夫ですね?」


ナースステーション経由で父に、メールでケアマネさんにそれぞれ日程調整をして、Zoomのリンクを送り、当日を迎えたものの、スマホに慣れていない父はスマホの画面でマイクをONにすることができません。あてにしていたスマホのリモートコントロール機能も、ビデオ会議でデータ量を多く使用しているためかうまく作動しません。楽天の月500円のSIMカードには限界があったようです。

ケアマネさんと私は画像と音声を共有しているものの、父とはスマホでは画像のみの共有となり、結局父の携帯に電話して様子を聞いたものを口頭でケアマネさんに伝えるというあまり意味があるのかわからないビデオ会議になりました。
唯一ビデオ会議のアドバンテージである即時性があったと言えるのは、「じゃあ、後は直接本人とケアマネさんが電話で話してくださいね」と言って電話番号を伝え合い、同じ画面の中で意思確認が取れたことでした。それだけでも成果だったのかもしれませんが。

「人の助けを借りることが当たり前」のイスラエルの文化

私は「人に迷惑をかけない」ことがよしとされる日本で育ちましたが、成人してからの人生の約1/3をイスラエルで過ごしてみて、また子育てをする中で、日本では見たり聞いたりしたことのない言葉の組み合わせに出会うことがあります。


例えば
・子どもの友達(4歳)が子どもだけで遊びに来た時、トイレに入って何のためらいもなく「Nono~(呼び捨て)、手伝ってー。」とおしりを丸出しにして待っている。
→日本だったらお尻の拭けない4歳児を一人でお友達宅に遊びに出すことはあまりない気がするのですがどうでしょう?

・子どもの友達(5歳)が遊びに来た時、子どものクローゼットからお気に入りのドレスを持ってきて「Nono~ これ着せて。あと、髪の毛も結んで。」と具体的に依頼してくる。

・道を歩いていて、全く面識のない人に「スマホの電池がなくなっちゃったんだけど、親に電話したいのであなたの借りてもいい?」と言われる。

・公園の脇を歩いていたら、運動器具で懸垂をしていた見知らぬおばあちゃんに「孫に写真を送りたいので、あなたのスマホで写真を撮って、この番号に送ってくれる?」と言われる。

・同じアパートに住んでいるおばあちゃんとロビーで会った時、「掃除婦の人を探しているのだけど心当たりがないか」「同じアパートの中で物件を売却したい人を知らないか」聞かれる。

・玄関のチャイムが鳴ったのでドアを開けたら、「同じアパートの住人だが、あなたたちはアパートに付属している2台目の駐車場を使っていないようだ。空いているのなら使わせてもらえないか。」と交渉された。

・義弟が日本に行った時、SIMカードを開通させるのに日本国内の携帯電話番号での認証が必要だったが、その辺を歩いている人に話しかけて認証してもらっていた。
→たぶん認証制度を考えた人は、購入者がその辺にいる人に頼むとも頼まれた人が対応するとも発想もしなかったのだと思いますが...。

・通販の配達業者から「あと10分でそちらに着くんだけど、家にいる?」と携帯に電話がかかってくる。
→配達予定は基本的には指定できず、前日か当日に「X日9:00-12:00の間に指定場所に配達します」というように携帯にメッセージが入るので、配達員が電話した時刻に自宅にいなければその場で玄関前や配電盤ボックスに置き配してもらうなど指示します。日本のようにお客様優先ではなく、配達員が自分の都合と届け先の都合を交渉します。

・子供の友達(5歳)が遊びに来た時、「あなたの冷蔵庫に私が食べたいものが入っているかもしれないから、開けて見させてもらってもいい?」と聞かれる。
→聞かれるのはまだいい方で、勝手に開けて中を見られたり物を取り出されることもよくあります。

・語学学校の授業中、先生のスマホに子ども(高校生)から電話がかかってきて、そのまま会話が始まる。
(私シングルマザーなんだけど、今日うちの子学校行ってないのよー。と補足説明された後)「え?病院行ったの?もう終わった?これから学校行くの?オッケー」と授業中に子どもと通話した後、そのまま授業が続く。
→直接の「助け」は求められていませんが、私用を業務中にしてもそれほど問題にならないことに新鮮な驚きを受けました。
ちなみにスーパーのレジ係(ほぼ100%座って接客)が自分の電話で話しながらバーコードをスキャンしたり、銀行員が客から見える窓口でサンドイッチをかじりながら事務仕事をしたりするのも珍しくはありません。

老若男女問わず、自分の周りにいる人は社会資源であり、「自分の必要に対して、周囲の人の助けを借りる、そのために交渉することは当たり前」という態度にさらされて生活していると、「人に迷惑をかけない」のが自立なのか、今までの価値観が大きく揺らぐのを感じることがあります。
欧米社会の行動パターンなのか、中東ならではなのか、ユダヤ人の気質なのかわかりませんが、イスラエルでは助けが得られなかった場合は納得できる結果が得られるまで他の人にアプローチし続けるし、助けを求められた場合は主観で判断して応じるか否かを決めることができます。(助けを求める権利と断る権利が共存しています。)

「本人主体」が立脚する土台の違い

父のように生活に人の手を借りることが具体的に必要になった段階で、上記のように自分から人に助けを求めることができていたら、ベッドや歩行器の搬入も退院の迎えの手配も、もっとスピーディーに進んで退院も数日早めることができたと思います。
日本の病院では「人に迷惑をかけない」ために、通話は談話室で行うことになっていますが、本人が動けない場合は常識の範囲内では通話してもいいのでは。
(現在は国際規格に基準が合わせられ、ペースメーカーを入れた場合でも「植込み型医療機器の電磁耐性(EMC)に関する国際規格(ISO14117等)を踏まえ、携帯電話端末を植込み型医療機器の装着部位から15cm程度以上離すこと。」を守れば携帯電話の使用も可能なのだそうです。)https://www.pmda.go.jp/files/000215113.pdf

病院側がルールを一律に決めるのではなく、周囲が迷惑だと感じる場合には、それを伝え合って妥協する余白があってもいいのではと思います。
介護保険のように「本人主体」「説明と自己決定」の枠組みだけ海外から制度を持ってきても、実際に本人が主体として行動する積み重ねも環境もないのであれば、結局「周囲が本人にとってよかれと思う」制度利用にしかならないのだと感じました。

イスラエルに住んで最初の頃は、日本の「人を気遣う」「お客様優先」の社会と比べてショックを受けたり怒ったりすることもあったけど、9年経った今は、「人に迷惑をかけない」ことを優先して本人が周りに助けを求めづらい「美しい社会」より、イスラエルの子どもくらい図々しく、堂々と周りに助けを求める「無骨な社会」の方がある意味健全なのかもしれない、と思っています。

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