苦しい中でも歩いている日記
人生は、大半がささやかな一時で出来ている。
人生を大切にするというのは、ささやかな一時を大切にする事。
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僕らは世界の一つとして存在する。
僕も世界の一つとして存在している。
だから、情報を提供する側ではない。
世界や情報を共有して、改めて問答したい。
僕らの背景を理解して、生きていく力に変えて生きていこう。
それが出来る人だけが残ればいい。
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一人暮らしを始める時、新しい環境に身を置く時。
学校、職場、人間関係。逆境や逆風の中、逃げれない状況に身を置いて、考える。
息が詰まる。苦しい。
痛い。嫌だ。
逃げたい。帰りたい。
何の為にこんな事をしなければ。
何でこんな目に合わなければ。
何で自分が、何でこんな、と死ねない自分と現実を知っておきながら、怒りや感情の矛先、振り上げたこぶしの行き先を見失う。
その中で逃げずに成長していく事が、人間としての強さなのかなと思う。
快適な環境から離れる。ハングリー精神が育まれなくても良い。
ただ、自分の言動や姿が見えてくると、変わる事がある。
当たり前の生活に対する感謝が自然と芽生える。
親に感謝、家族に感謝しろ、と言われると気に入らない。
今でも僕は怒と思う。
ただ、逆風や逆境の環境の中で過ごすことで、僕らは変わります。
物事の本質に気づきやすくなるのかもしれない。
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今の時代、貧困や戦争みたいな解りやすい地獄や逆境に、僕自身が身を置く事は無い。それこそ
「世界には自分よりも不幸な人がいるんだぞ」
「ご飯も食べられない人がいるんだぞ」
と言われても、
「今の生活も出来ないのに(金も無いのに)子作りばかりしてるからだろ」
「田舎と一緒やろ。何もすることが無いからセックスしてるだけ」
そう嫌悪するくらいに一切関係な話だと言い切る僕ですら。
今、自分が生きている事、生かされた事への感謝の気持ちや恩人たちへの想いに尽きる。
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HSPと愛着障害には共通点があります。
僕の一例として、わかりにくい、誤解されている部分の理解をしたい。
・過剰な自己防衛「拒絶が怖い」という心理
相手のちょっとした態度や言葉を過剰に受け取る。
これは僕は物心ついた頃から
「相手の言葉の裏を読みなさい」
「(今の言葉)あなたは馬鹿にされているの」
と、散々教えられて、自分以外の悪口を散々聞かされて育った僕にとっては良くも悪くもの武器だった。相手について考える癖。
結果的にそれは間違った行為、間違った認知は、認知の歪みを誘発する。
自分の意見と違う意見や反論をされた時に
「自分が否定された」と感じやすくなる。
これが母親が発狂していた頃の言葉に露骨に表れている事にも今なら気が付く。よく解る。
• 自己防衛的な行動が僕にもある。
話の途中で「もういい」「話にならないからもう言わない」という時がある。
それは逃げだ。ただ、自分の非を認めたくないのではない。
ひとつでも、少しでもそれを認めて受け入れるとそこから一気に自分が悪者にされると言う環境下で育った僕の思考の癖だと思う。
人を信じるのは怖い。もう嫌だ。
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HSS型HSPを嫌う僕。
この言葉はnoteで知った。
エンパスもそうだ。
いま改めて書いておく。僕もその時は自分の事をそう言っていた。
一年くらい経って、世界にはHSS型という正式な名称はない事を知った。
だからといって、HSS型という存在を否定したい訳ではない。
勝手にしてくれと言うだけだ。
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僕が刺激を求めるのは、ADHDの個性かも知れないし、僕はそこでADHDだろうがASDだろうが、あまり気にしていない。
発達障害だから何だと言うのだ?と思っている。
自分がだらしが無いのは自分の問題。
多動性だろうが不注意だろうが、治すのは自分。
変わりたいなら変わるのも自分次第。
ADHDだろうが答えは関係ない。変わらない。
どうしたいかだけだ。
どう生きたいかだけだ。
自分を認めろ。自分を理解しろ。自分を許せ。
そんな都合のいい言い分だけの発達障害は今の僕から見て論外なのだ。
僕も今でも、未だに出来ない事ばかりある。
でも、それを個性や特性と言って誤魔化す気は無い。
直すか直さないのか、僕次第だ。
もう最後にしたいくらい、多様性ではなく多面性です。
どうなりたいのかは自分次第です。
どうしたいのかは自分次第。
どう生きたいのか、自分次第です。
どう変わりたいのかも、自分次第です。
すべてを、自分次第です、と言う風潮も嫌いだ。
みんな、自分次第と言い続けていると、必ず。
自分がしている事の因果が生まれて返ってくるよ。
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最近ますます思う事。
ネット上にある言葉、文章、存在、人間。
全部がどこか偽物っぽい。
全部、どこかから拾ってきたような言葉や文章。
全部、架空の存在や、理想像の集合体に見える。
日本語に綺麗な違和感がある。
そんな人や文章を見て、その人や言葉が賞賛、共感されていると、
「これはどこかで流行った名言の盗作だろうな」
と思って眺めている。
別にその言葉や文章によって、それを力にして頑張れるのだから悪い事では無いと思う。
けど、それがトレース(盗作・盗用)されにされた言葉で、何度もコピペされて、切り取られて。
本来の意味や文脈すら消えてしまった言葉から、何を学び、何を感じるのだろうかとも思う。
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やはり家庭はコミュニケーション能力を育む場であるなと実感する。
自我が生まれて、発達して「自分にも意思があるんだぞ」と全力で自己主張する時期に突入する(らしい)。いわゆるイヤイヤ期。
この時期に親が子供の意思を全否定してはいけない。
何でも、自分の思い通り、になると思わせてもいけない。
子育ての難しい時期だなと思う。
相手は人間であり自分も人間だ。それに尽きると思う。
どこまでいっても答えも正解も無い人間同士、人間関係、人間相手なのだ。
家族は聖域ではない。
血の繋がったのは歪な負の連鎖かも知れない。
家族は聖域ではない。
それが人間の生々しい姿だ。
みんな、気が付かない、言わないだけだ。
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ただいま。
かなしい。
空しいね。
最近も書いた記憶がある。
自分の人生に未来と希望が無ければ孤独死(絶望死)だ。
だから
「今更もう遅い」
「今までの人生(時間))を返せ」
など。
そういう事を想っては絶対に行けない。
そういう類の言葉は絶対に真剣に考えてはいけない。
絶対に、絶対にだ。
それは全否定になる。
だから、とにかく、何があっても、それは考えてはいけない。
人生を全否定するしかなくなる。
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言いたい事、書こうとしていた事、帰っていたら、もうどうでもよくなった。
何の為に金を。何でこんな無駄な時間を。
つまらない場所だった。
有限な人生、かけがえのない時間は命と同じ。
自分や自分に関わる、自分の大切な存在のお金。
死に金は死に金。
人の気持ちを考えない人はやっぱり嫌だ。
言葉が軽い。
反応(対応)も悪い。
相手の言葉は気持ちが一切考えられていない。
自分だけ。自分の事、自分の視野だけでしか考えない。
それで生きていけるのだから良いなと思う。
これは何かに対しての避難でも悪口でも無いの。
みんな辛い事や嫌な事、悩みや色々な感情を抱えているのだと思う。
仕事中も、プライベートだからって、それを表に出していないだけだと思う。
僕は音楽に対して
「語る愛もあれば語らない愛もある」
そう言っていたけれど。
大人になれば、どんな事でも語らない愛を拡大していくのだと思う。
好きな事や物については語りたい。
それは誰にでもある感情、心理だと思う。
けど、そこで多くを語らない選択をするのも、大人だと思う。
大人はつらいよ。
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誰かの力を借りて。
誰かに話を聞いて。
誰かに相談して。
誰かの力は使わない(借りない)方が良いと思った。
これは今の僕がそう思うだけ。
これも絶対の解答(正解)はない。
僕は自営業の家系。
子供の頃から、周りの大人はほとんど経営者。
知り合いも、ほとんどが自営業(一人親方)。
だから、人間関係の大切さ、御縁や義理、お互い様で助け合う事まで、ぼくの行動原理は自営業者の自然な流れや考え方で自然と育っている。
だから先人(人生の先輩方)にアドバイスを聞いて学ぶこと考えることが大事だと教わりながら育った環境。
でも、実際にはどの経営者も自営業者も必死なのだ。
当然、同じ人間だ。聖人君子でも、人格者でもない。
本当は金が無いかもしれない、実は懐は苦しい、破産寸前で立っているかもしれない。仕事になれば別人になる人もいる。
中途半端な気持ちや覚悟で、人の力を使う、借りるべきではない。
絶対に、これは忘れずに来年から頑張りたい
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家の事をしている人は大変だと思う。
家事。主婦、主夫さん。
何が大変かというと、それも人それぞれで好みや向き不向きによるけど、家の中でずっといて、毎日同じ事(ルーティーン)の繰り返し。
何より社会、外界との交流や接点が少ないと、視野も狭くなる。
息苦しさやそれこそ退屈で我慢やストレスが限界に来ることがあると思う。
僕がしていて今でも思う。
サラリーマンや外で働いている方が楽だとは思わないな。
家の中で舵だけしてろっていうのも僕には退屈、地獄だな。
僕が思ったのは、
ここでいえば家の中でいる人。
自分がするべき事があってしている人。
家族や自分たちの為に家の中で働いている人。
息が詰まりそうになる。
息が詰まるのだ。
きっとそう言う人は、外に刺激や何かを求める。
そして、視野が狭くなる。
視野が狭いのに、元々狭いのに、更に狭くなる。
人間は誰しもそうなる。可能性がある。
そうならない為の人間の力。理性、自制、思慮。
でも、どうしても、僕らは人間だ。僕らも人間なのだ。
火傷もする。度を越えて、痛い目を見る。
みんな、一緒とは言わない。
けれど、みんな、それぞれ必死で生きているのだ。
必至だからこそ、言いたい事、叫びがあるのだ。
感情の生物。感情の使い方次第。
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僕の、言葉の、揚げ足を、取らないで。
もし、その声が僕に聞こえてきたら、許さない。
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今の悩みや苦労は一年後には忘れている。
一年、二年経てば忘れている。
それでも変わらず覚えているのなら、それは自分の問題。
期限、タイムリミットと決めるのも大事。
僕らは前に向いて生きていく。
これからは、やられっぱなしは好きじゃない。
性に合わないのではない。
僕の性格は基本的に、楽しく、笑って、友好的、平和なのだ。
僕には、僕ら家族、一族。
この遺伝を超える可能性があると思っている。
僕が引き継いだものを、僕の視点で正しくしたい。
別に何か偉い人になって賞賛されて認められたいとは思っていない。
けどお金は欲しいし、成功者になりたい。
けどそれは、今まで死にかける程。死ぬ程というのは
「自分のレベルを超えて(身の丈に合わない、地に足が付いていない)金の使い、間違った人間関係をしてしまった」
と言っているのだ。
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僕も何が正しいかは分からない。
でも、僕にとって、幸せの答えは見えている。
ただ、時間が無い。
これだけは言っちゃいけない言葉だ。
もう時間が無い。
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その時になって、振り返れば、過去のそれが経験や学びになれば良い。
なれていれば良い。
いつか、時間が解決する、ではない。風化もさせない。
ただ、一年後には、一年後になれば、それが不幸や絶望の種になっていなければいい。勝手に忘れるよ、自然と忘れられるよ、なんてのは嘘。
ほったらかしにして済む事もあるし、考えない気にしない事で過ぎるを防ぐ事も出来るかもしれない。ここにも絶対の正解は無い。
ただ、余裕をかましているのではなく。
苦労も苦悩も不安も絶望も、落とさないようにしっかりと輪郭(概要)だけは理解している。受け止めている。
自分の人生を一つでも、明日にはもう少しほんの少しでも、いい一日になれるように、不幸も不安も遊んでやろうと思える大人になれれば良いな。
僕の事は、そう想って。
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人間の一生というのは、瞬間の繰り返しだと思う。
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たった100年くらいで出来て成り立っている今のこの社会は。
社会が、会社が、家族が、自分が生きている間は絶対に存在し囲われる、安泰で、一生安心。
それは綺麗ごとの妄想。偽善、都合のいい勝手な言い分。
保険も安定のレールなんてものが存在すると思い、信じ込んでいた世代が死んでいく僕ら世代。
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20歳で成人して、例えば10年。
会社が倒産か何かで自分が無職になって、再就職。
自分のお店を始めて10年で閉店する確率。そしてまた再挑戦。
学校から社会人。学生からフリーター、色々諸々あって就職なり施設。
結婚して仕事をどうする。
年月が経ちまた形が変わるかも。
実家に帰るか、悩むけれど悩むしかない、再度、仕事復帰。
結局、学校を卒業して、就職した会社で一生涯務める。
学校を卒業して一度は就職はしたけれど結婚をして家庭に入る。
子供が自立し、安心の老後へ。
こんな人生を送っている人間なんていなかった。
ほとんどいなかった。
何処かで必ず泣いている。火傷している。燃えている。悶えている。
本当に僕が数えて調べた。
ほとんどの人がそんな人生を送れていなかった。
会えない場所にいる人もいる。
仕事をしていないで生きている人もいる。
悪い人もグレーな人もいるけど。