人間のそのそれを魅たような気になって

僕は恩人に嘘をついた。

僕はこういう事も書いてしまう人間だ。

僕は恩人に嘘をついて、自分の都合のいいような話をしている、のかもしれない。騙したり、利用したり、馬鹿にして見下していた訳ではない。
まして裏切った訳でもない。
ただ同時に十年以上も何もせずに、余裕かまして、高みの見物をしていた連中とは違う。

と僕の闇が訴えかける。僕はそう言いたいのだ。

これは悪人の弁論ではない。
でも、きっと僕は僕を見逃せないのだ。
許せない訳ではない。どうしたって自分は自分が可愛い。
言い訳だろうが何をしようが自分が絶対的だ。
でも僕は
「嘘をつきたくない」
「差別はしない」
という。
これは
「嘘をつきたくないから嘘をつかなければいけない事はやめてくれ」
「差別したくないから、差別してしまうような人は関わらないでくれ」
というのが本音本心だ。

僕は良い人かどうかも分からない。
そもそも
「変な人だったら何なんだ」
と自分で振り返って思う。

人は誰しも皆。

「色々」という言葉は本当に僕にとって都合がいい言葉だ。
一言「色々」とさえ付けるだけで僕が他に使う
「大なり小なり」「度合いはあれど」「良い悪いじゃなくて好みの問題」
この手の言葉を一気に省略し、丸ごと包み込んでしまう気がする。
何となく。
万事が一言で片付けられようとする。

僕は今朝の電話を思い出すのが辛かった。
年末年始にかけてずっと僕の頭の中、心の中に引っ掛かっていた。
憑りつかれているみたいに、一瞬たりとも意識しても無意識でも常に僕の中にその事があった。頭も心も全身に力が入っているように緊張やコワバリ。
頭痛や吐き気とは違う、気持ちの悪い、落ち着かない。
スッキリしないのは自分の問題だ。僕の悪い癖と、現実と向き合うのが怖くて、いつまでも「嫌」と愚図っている子供や餓鬼だ。

僕は変わるべきだったというより、変わるチャンスを頂けただけだ。

どうする事もしないで生きていられる「誰か」とは大違いだ。

・・

去年は「言葉の暴力」について考えたことが多かった。

インターネット上の話だけではない。僕が生きているこの今の周りの中で、コンビニや飲食店、他にも日常生活で目に付くところ、正直大手や個人店関係なく、人への悪口や暴言を見かけることが多かった。

固有名詞や特定の名前など具体的には書かないけど…

「○○、絶対に許さない!」
「○○したら○○する!」
「○○の人は拒否!!」
「○○のやつは○○!」

思い出しても意外と多くて、それでも内容はやはり、怒り。
特定の誰かに対しての怒りや苦情を訴えているのだけど、それを店のSNSや張り紙(広告物)、お客さんから見える範囲、(不特定多数の)目に付く可能性がある所になど。

去年はそういう事をよく目にしたというより、僕の目に付いただけだ。
そんな事は今までもそこら中にあった。
悪口や暴言の類は人間社会には普通に存在する。
むしろ僕はそれを良しとはしないが、普通にそういうもんだと思ってはいる。
犯罪や戦争は良くない事で正当化するものではないけど、世の中から犯罪や戦争が無くなることはない。
私怨や軋轢はどうしても人間同士、人間社会では完全にそれを避けて、そういうものが無い世界で生きていく事は不可能だと僕は思う。
生きていればそういう事もある、そこまで無策に手放しでその現実や社会を受け入れることは大変疲れるし苦労もすると思う。

絶対の正解や完全無欠の人間もいない。時代や世代、どれだけ文化文明が進化して人間の生活が変わったとしても、完全な人間は生まれないし、存在しない。価値観も変わっていくのに、それでも僕ら人間は憎しみ恨みけなし気付つけ合い裏切り、優しかろうが優しくなかろうが嘘もつく。悪意や作為、意図してもせずとも、色々、僕らはやっているし、やらかしてしまう。

とはいえ、極力、最善の手や道を模索して生きていくのも人間だ。
何か悪いことがあっても、最悪なことがあっても、不幸が重なって、
「もうどうしようもない」
不安に苛まれて、絶望や、その人の人生のどん底に陥ってしまっても。
世界で一番不幸なのは自分だと思い込んでしまっても、その言葉は、自分の中に包み込むしかない。

背負うとか、飲み込むとか。一生忘れないように刻むとか、それを墓場まで持っていく秘密としたとしても。
それが人間の魅力や人生だと言えたとしても、本当に心底それと自分がどう向き合って、それを表現として形にするかは悲しいけど、よくよく考えなければならない。

世の中そういうもんだから、ネットなんてそういう所だから。
現実社会とインターネットの世界は別物ではないように語る人もいるし、最近よく分かった事で、現実社会(実生活)の自分とインターネットの世界の自分は別人とする考え方も僕はよく分かる気がする。

だからそのような言葉の中には、個人的には強く共感してしまうもの、感極まってつい賛同の声を挙げたくなることもある。
僕を応援してくれてメッセージや力をくれた人にも、僕に共感や何かしたの感情が動いたから僕を見つけて僕を見守ってくれたのだと思う。

少し話が脱線したような、解釈を広げてしまったような気はするが。

今でも僕は共有・過程・共感・感動は、僕の中ではとても大事で、
助走からのホップステップジャンプのような回路で人の感情や物事は進んでいくと考える。

そう言う意味で
誤解・語弊などの不安要素を覗き、誰が見ても不快・不安にさせないように社会の中で生きていくのは難しいと思う。

これも僕が正しいや合ってると言っていると思わないでね。とはいえ僕の下を離れた言葉が人からどう見られ受け止められるのか、それは僕が影響を与えたり、どうのこうのできるような事ではない。

大人って何? 社会人って何?

そういう話は、それぞれの胸のうちで。
思いを巡らせながら生きていると、
僕は一方的に想ってみんなと付き合っていく。

去年一年は独りで三役をしたような気になって。
人間の、そのそれを、みたような気になって。
求め続ける。求め続ける。

僕の中の向井君が「今を生きろ」と叫んだように。
僕の中の向井君が「探せ」と今日も叫んでいる。

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