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今日一日をどう生きたのか ヱヴァンゲリヲンの終劇。監督から声優さんからの最後の舞台挨拶の言葉

ヱヴァンゲリヲンが始まった時

当時、最初のシーンでシンジが使っていたのは、電話は、緑のテレホンボックスだった。

DADは、当時は存在していたもの。デジタルのレープレコーダーと想像して欲しい。僕はギリギリその世代だ。18歳まで、あるいはその後も僕はテープレコーダーに録音をするという縁もあった。

けれど、エヴァンゲリオンの世界、当時は、もう既にMDプレイヤーが発売されていた。その後にiPodなどのデジタルプレイヤーが急速に普及していくけれど、監督はカセットテープであるDADを使った理由。
それはテープが回る、そのことが目に見えるから。MDや他のプレイヤーではテープが回るのが見えないからあえてテープであるDADを選んだ。

この作品中に出てくるS‐DADというのは、様々なシーンで登場する。そしてその曲が変わる瞬間、デジタルの数字が移動する、進むことで、物語やシンジ君の心理描写や背景、状態を意図しているのです。
だから「S-DAT」は、ただシンジが音楽好きって訳ではなく。
彼の心理状態や、物語を語る上で重要な意味合いを表現現わしています。
なので、この「S-DAD」というものは、ただの間繋ぎのアイテムでは無くて、物語を解りやすく伝える為に、表現する存在、役割として重要な存在として果たしているアイテムなのです。

この辺りは、もうファンの皆様には周知の事実で、解り切った話なのだと思います。今更余計な説明をして すみません。


庵野監督は作中、空間の間として、表現として意図して無言・無音を求めて作ろうとしていたそうです。
ですが大人の事情で尺を延ばしたり、決められた時間の中で納める為に、短くしたりとする必要があったりしてそうで、監督の本位や真意とは別の所、事情で仕方なかった部分もあったそうです。そこであえて、無言無音の時間を作りたかった為に話を強引に詰めて進めて、その表現したかった作りたかった無音の空間や、空気を作った、などの話が聞くことが出来ました。

僕らも生きている中で、今も、言葉にしにくい空気や、無言になってしまう無音になってしまう間というのは存在しますよね。

今、僕がまさに言葉に詰まってしまって無言無音になってしまう事も、生きている限り、生きている上で、社会や人間関係や日常の中で、無音や無言、言葉にならない、あるいは その無言に耐えられないなどの真理や気持ちを持ってしまう時は、常に僕らの生活や日常の中にはあります。


悲しい。悲しい。なんで今こんなに悲しいのだろう。今必死に考えて思い出している。言葉にしようと喋ろうとすると苦しくて言葉に詰まってしまう。

ああ、悲しい、ああ 悲しい、と言いたい。 「ああ」と言いたい。哀しいの前に「嗚呼」と付けたい。

苦しい。 泣きたいくらい、もう言葉に出せないくらい苦しい。息が出来ない、息が詰まるほど悲しい。

誰も僕の気持ちわからないとは今は思わない。思っていない。

ただ。ただ、もう僕は、ごめんなさいと、口にして、苦しい、悲しいとしかもう心を説明できないのです。

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庵野監督は自らの仕事について。

「僕にとっての仕事とは見知らぬ誰かのお役に立つことをする事。その代わりにお金を頂きます。誰かのために何かをする、一生会う事も無い人に対しても役に立つことがしたい、そう思うのが僕の仕事です。」と(そのようなニュアンスの事を)語っていました。

僕はこの言葉を聞いた時、瞬間に自分に置き換えて重ねて、僕は何の為に生きてきたのだろう、生きているのだろう、これからは、と考える今。
許されるなら、まだ僕に正解はだれにも分からない、どこまでいっても独り善がりの自己満足、一方的な想いや気持ち、考えではあるものの、
許されるなら僕は、あの子の為に生きたい。生きたかった。幸せになりたかった。自分が? 自分も、彼女(あの子)も幸せにしたかった。一緒に生きていたかった。

綺麗事や都合よく良い人は演じきれないけれど。一生会うことが出来ないのは辛いだけ、僕は(僕にとっては)ツラい限りなのだけど。
それでは僕は幸せになれなずに死んでいくだけなのだけど。

誰かの為じゃなく、自分の為かもしれない、それを一方的な美化している独り善がりと言われるのかもしれないけれど。僕は彼女と一緒に行きたかった。幸せになりたかった。 だから。だから、と。

僕は、監督の言葉に、自分に都合の良い解釈で受け止めて当てはめているのかもしれないけれど。考えてしまっているだけなのかもしれないけど。

けれど、どうしてもまだ僕は夢を、希望を、彼女(あの子)を忘れられないで生きていきたいと願う気持ちがある。


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傷付くのが怖かった。そうなんだ。
僕は、人を愛するのが怖かった。愛し方も愛され方も知らないのでもなく、解らない、解っていないのかもしれないけど。
傷付くのが怖かっただけなのかもしれない。だから、お前は傷つくのが怖くて嫌で、その幻想や妄想や夢みたいな理想像(幸せ論)を盾に語っているだけじゃないかと言われるのも僕は、もう反論しない。


僕は今何が悲しいのだろう。きっと、間違いなく片手で数えるだけの理由があって、それが重なって、それが言葉を遮ってしまうくらい感情が溢れかえってしまっている。


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葛城ミサトは14年間で子供が生まれ親になっていた。
最後の舞台あいさつについて、はっきりと内容を覚えてない、間違って聞き間違って覚えてしまっている事はあると思うけれど許して欲しい。


ミサト役の三石琴乃さんが「息子は幸せでしたか?」という庵野監督への質問で、監督は「加地少年は親の事は知らない。親の事は知らせていないけれど、親の事は一切知らないけれど、良い人たちに育てられて、彼は幸せでしたよ」と。

父親は加持リョウジ。オリジナルでは二重スパイのような、謎や色男として登場していたけれど、新劇場版の今作では空白の14年間の中で死んでいた。

加持リョウジは「破」の最後、サード・インパクトを自らの命を懸けて止めた為、「Q」ではすでに故人となっていたことが、新劇場版「シン・エヴァンゲリオン」の中で明かされました。そして、ミサトは「あの時、リョウジと一緒に残りたかった(一緒に死にたかった)と言い、けれど、その時にはリョウジとの子供がいたからそれを選べなかったと語ります。

そしてラスト近くでカヲルとともに精神世界に登場しています。
監督は壇上で、空白の14年の間の出来事として。
碇ゲントウと冬月がネルフから離れて、そこに、渚カオルが碇ゲンドウの後釜として、加持リョウジと一緒にいたと話してくれました。

葛城ミサト、三石琴乃さんは
「子供は親じゃない大人の背中や、周りの大人や社会に刺激を受けて、周りの他人の大人が善良な人だったから、息子は幸せに育ったのだなと思った」と語った。

「そうして成長していく中で子供は、周りの大人や他人の影響を受けて、自分の生きる道を選んだり前に進めるのだと」語った。
三石 琴乃さんは最後の感想として、監督に「息子は幸せでしたか?」と問い、監督が「彼は幸せに育ち、幸せでした」と答えた。それが僕の中の印象的な舞台挨拶の一幕だった。


赤木リツコの声をされた山口 由里子さんは、赤木リツコの今後。
「赤木リツコは母親とゲンドウとの関係もあるので、それについて考えてしまう。いつか監督に赤木リツコの幸せな姿を見せてもらいたい」と伝えていた。感極まった挨拶をされていた。


ミサトは最後、息子とシンジを想い、息子の幸せを願い死んでいった。

リツコはミサトの遺言、伝言を受けてその後も生きていく。
そこで山口 由里子さんはリツコのこれからを考えたのだと思う。
「リツコという存在は私が死ぬまで自分の中に消える事は無い」と語った。


碇ゲンドウである立木 文彦さんは「これから先も、エヴァンゲリオンとの出会いが一期一会で、運命で、これからも皆さんに愛して欲しい」と最後に言葉にした。

「ヱヴァンゲリヲンをこれからも愛してください」というメッセージを、どの声優さんも監督も一貫して全員が言葉にして伝えていたと僕は覚えている。

何度も言います。
間違っていたり、聞き間違いや、覚え違いがあったらごめんなさい。


三石琴乃さんは、
「葛城ミサトと出逢えて幸せでした。彼女がどのように生きるのか、自分も同じように泣いたり叫んだりのた打ち回ったりしながら生きてきました」と。そして。

「ミサトの想いを受け取ってください。明日からも元気に生きていってください。」とファンに語り掛けた。


碇シンジ。緒方 恵美さんは、
「14歳という多感な時期のシンジを、今まで自分の中で生き残してここまで生きて来れた。ここまで14歳で来れたので、これからもこの気持ちを大事に大切にして生きたいと思っている」と語った。

「皆さんの記憶と共に生きて。皆さんの中で碇シンジという存在が生きて、覚えていてもらえたら、と思います。」との言葉だった。

また

「自分はヱヴァンゲリヲンが終わるまで生きていられれば良いと思っていた。エヴァが終わるまでは生きていたいと思っていた。
だからエヴァが終わった死んでもいいと思っていた。けれど、ここまで来た時に、色々な人の想い受けて、経験を経て、これからも、神様が許してくれるなら、神様が許してくれる限り生きていきたいと思う。

これから先どうなるのか解らないけれど、またもしヱヴァンゲリヲンにどこかで会えた時にの為に、自分の命が終わるまで、この気持ちを忘れず持ち続けたい」

「これから先も、皆さんの人生や記憶と共に生きて、皆さんに会えた時に、変わらないねと言われるように在りたい。」

と言葉にして感謝の言葉にした。



庵野監督は「皆さんに感謝の言葉を伝えたくて、ここに来た(壇上に上がった)」と開口一番に言葉にした。

「今、世界中がこのような大変な状況で公開をして、完全な上映は出来なかった中でも多くのファン、見続けて、応援してもらえて、ファンの皆様のおかげで、ファンの皆々様のおかげで、ここまで来ることが出来ました。皆様のおかげです。

スポーツというのは大切な事だと思います、と。
スポーツを見た後に感動を得て、その日や次の日に生きていく力を貰えるものだと思います。ただ、スポーツ以外にも、文化として映画や演劇や文化というものもあって、その文化というものも、人々が夢や希望を体験する事、得ることが出来て、同じように生きていく力に出来るものだと私は信じています。感動させることが出来て、同じように生きる力を感じてもらえるものだと想っています。

世間というのは、言ってしまえば数字でしか作品というものを評価しない所があって、100億や数字があって、その上に評価や賞を取ったとかで評価を得るのが世の中です。と。

このヱヴァンゲリヲンという作品が商業作品である以上、数字を気にする事は、結果を数字を残すことは大事な事ではあるのだけど、エヴァンゲリオンというニッチな作品が皆様に受け入れてもらえて、愛してもらえた事。そしてファンの皆様のおかげで今、最後に答えを出せた事。

この作品が、文化としての可能性や希望を少しでも残せたのかなと思うと光栄な事だと思います。ありがとうございます。」と。

深く、深く頭を下げた。その時間は数えていないのでわからないけれど、僕の中での監督の言葉や、その言葉や、声優さんたちの言葉を自分に重ね合わせて考えながら、その姿、背中、感謝の気持ちと言葉を伝え頭を下げている監督を見ていた。

そこから監督の胸詰まる想いや言葉、キャストの皆さんが涙しながら壇上から降りていく。これで最後の舞台挨拶は終わった。


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これは必死で思い出して、苦しい中で僕なりに必死で走り書きでメモした言葉と記憶をたどって書いているので、言葉やメッセージや解釈が個人的なものになっていたら ごめんなさい。

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碇君がエヴァに乗らなくても良いようにする(したかった)。

嫌な事から逃げ出して何が悪いんだ。

そうやっていじけていても良い事無いよ。

私が消えても変わりはいるもの。

レイはもう居ないのよ。(シンジ君)もうレイはこの世に居ないのよ。

皆の為に槍を手に入れる。そうすれば世界は戻る。

僕のせいなのか。

そんな顔をしないで。シンジ君。



償えない罪はない。 希望は残っているよ。 どんな時にもね。


僕は、葛城ミサトの「罪は自分の意思で償わないと贖罪にならない」という言葉があったと思う。


劇中の最期、カオルが幸せになれるようにとシンジが語り、二人が会話をする。

僕はシンジ君を幸せにしたいとしてきたけれど、それは自分が幸せになりたいという事だったんだ。

もう君はイマジナリティという中では無く、現実的な世界での幸せや道を選択しようとしているんだね。と。

僕は、色々な事を考えてしまう。自分にまだ重ねて、自分のしてきたことが正しかったのか、何より、僕は、また独り善がりの自語り、美化した綺麗事を正当化させようとしているのか、と、自分が悪いのか、どこで何を間違ったのか間違っていたのかと、その自問と自答を繰り返していた。


明日に続く。

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