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Kindle版『純粋でポップな限界のまちづくり−モテるまちづくり2』発売記念、セルフ解説

 去る2017年、『純粋でポップな限界のまちづくり(ピュアでポップなギリギリのまちづくり)−モテるまちづくり2』を発表しました。そしてこの5月26日、本書の電子書籍版をKindleにて販売開始しました。

 本書は、2014年に発表した前作『モテるまちづくり−まちづくりに疲れた人へ。』の続編で、前作で提案した「モテまち理論」をさらに深めた形で紹介するものです。以下、Kindle版発表を記念して、著者自らセルフ解説をしてみたいと思います。

「笑顔じゃない」まちづくり活動家

 僕は、大学生の時からまちづくりというものに関わって来ました。それはもう衝撃的な体験で。まちづくりすげえ!おもしれえ!みたいな驚きがありました。人間が、金銭対価や契約といったものによらない、内発的かつ自己充足的な動機で行動し、しかもそれが集団行動となって他人を利するものとなる。そんなことが、うまくいっているまちづくりの現場では起きていました。

 そこから多くを学ばせていただいたのですが、一方で、まちづくりに関わる人の全員がそうではない、ということもわかってきました。まちづくり活動家の中には、「笑顔じゃない」人もいる、ということが気になってもいました。つまり、「あんまり楽しそう、やりたそうじゃない」っていうことなんですよね。

 でも考えてみれば不思議で。というのも、まちづくりというのは大抵の場合ボランティアというか、対価を用意されるわけでもなく、約束してするものでもなく、自主的にやるものじゃないですか。だったら、やっている人は、やりたいから、納得してやっているもんだ、とまだ若かった僕は思っていたわけですね。にもかかわらず、そうじゃないと。それはなんでかなあと。

 で、その理由を研究を重ねた結果わかったのが、大きく2つあると。

まちづくりに市場原理を持ち込んでしまう錯誤

 第一に、「まちづくりに市場原理を持ち込んでしまう錯誤」です。

 詳しくは本書を読んでいただくとしてここでは詳しく述べませんが、まちづくりというのは、「まちの人なら誰でも使える財やサービスを供給する活動」と説明できる営みです。まちの人なら誰でも使える財というのは、経済学でいう非排除的な性質を帯びる公共財ということなんですね。

 非排除的であるということは、無防備にやれば、利用にあたって正当な対価を支払わないフリーライダーが必然的に発生するし、利用されてもされても儲かりはしないっていうことなんですね。フリーライダーがけしからん!と怒る人もいますが、まちづくりがフリーライドされるっていうこと自体は、まちづくりという営みの定義上「そういうもんだ」としかいいようがないことなんですよね。

 僕らは日常的に市場経済に頼って生きています。っていうか、市場での交換以外の方法で財やサービスを移動する方法をあんまり知りません。だから、市場原理以外の価値観を意外に訓練してなかったりします。その結果、まちづくりという営みにも、何気なく市場原理を持ち込みます。こっちは良いサービスを提供して、お前は利用したんだから、対価支払いは当然だろう、みたいな

 いやー、それがねえ、当然じゃないんすよね。

 まちづくりは市場原理がうまく機能しない。にもかかわらず、そこに市場原理を持ち込んでしまうという錯誤が生じると、フリーライダーが「ルール違反のムカつく敵」に見えちゃって、例えばまちづくりなんかでも、頑張れば頑張るほど、頑張らない人、協力しない人が嫌いになります。

 「まちのために頑張る意識の高い俺達」という選民思想的な驕りと、「まちに寄生する意識の低い者共」という蔑視が生じます。当然、蔑視された側は、蔑視する側を「なんかしらんけど地域のために貢献しろと上から言ってくる嫌な奴ら」という認知を持ちます。

 その結果、本来まちづくりが幸せにしたかったはずの相手である地域の人々の中に、分断と対立が発生します。この逆説を生じさせる性質を、僕は「まちづくりの呪い」と称しました。

人に「自発的なボランティア」を強制する権力の存在

 第二に、人に自発的なボランティアを強制する権力の存在っていうものがあります。

 まず言葉を整理したいのですが、自発性と内発性っていう2つの言葉があって。宮台真司の定義するところによるとこうです。まず内発性っていうのは、外的要因に関係なく、自分の中から湧き上がる行動の原因のことですね。一方で自発性とは、外的要因に影響されて湧き上がる行動の原因のことです。

 で、僕らは一般にボランティアとは、内発的に行うものだと思っている。しかし実際には、自発的なんですよね。

 例えば就職活動で有利なポジションを得たい大学生というのがいるとしましょう。で、採用市場は、学生時代にボランティア経験を積んできた学生に高いポイントを付けるとします。この場合、学生は、就職活動で有利なポジションを得たいために、採用企業への媚態として、ボランティア活動をするでしょう。

 あるいは、企業が、自社のイメージを向上させるために、社会貢献をアピールしたいとします。人々は、例えば地域のボランタリーな清掃活動に自社の社員を出してくる企業に対し、良好なイメージを抱くとします。この場合、企業は、人々から良好な企業イメージを勝ちとるために、人々への媚態として、自社の社員にボランティア活動をさせるでしょう。

 前者の場合、この学生のボランティア活動は自発的な営みだと言えます。別にボランティアそのものを内発的にしたいわけではないです。後者の場合、社員は、別に掃除を内発的にしたいわけではないです。このように、内発的にしたいわけではないが、権力者への媚態として自発的にとる活動というものがあります。

 誤解してほしくないのですが、それが良いとか悪いとかいいたいわけではないんですね。単なるありふれた権力作用のつもりで書いています。ポイントは、そういう背景にあって、権力を有する側は、人々にボランティアを強制することができるっていうことなんですね。

 そのように権力に対する媚態を取る時、私達は必ずしも内発的にはしたいわけではないけど、自発的のボランティアをすることがあって、この場合、私達はその活動をすることはできますが、内発的な湧き上がる喜びや充実感があるとは限りません。

 まちづくり活動はよく知られるように人々のボランタリーな活動に依存して営まれます。それは、先程述べたように、まちづくりがそもそも非排除的な財を供給する営みであり、その事業自体がなんらかメンバーに還元できる売上を生じさせるわけではないからです。じゃあ、そういう状況で活動を続けられるとすると、内発性だけに依存しているわけにはいきません。じゃあどうしてまちづくりが維持できるのかっていうと、例えば行政や大学や企業や地域団体といった権力が存在していて、その権力が作用した結果、人々が「自発的に」まちづくり活動にボランティアとして参加したりする回路が作られるからだ、と説明できるわけです。そういう権力に作用されて自発的に行動する時、人は笑顔を忘れがちだということなんですね。

笑顔でまちづくりをするための「モテ」

 このように、本来みんなが笑顔で取り組めて良いはずのまちづくり活動が、笑顔で取り組めない理由が理論的に解説できるようになりました。でも、人々が笑顔でまちづくりに取り組めてもいいんじゃないのか、もしそうだとすると、それはいかに可能なのか、ということを考えて、僕は「モテ」という概念を前作の『モテるまちづくり』で提案したのですが、それについては以下の記事で詳しく述べていますので、ご興味のある方はどうぞ。

 で、本書ではさらに一歩深めて、この「モテるまちづくり」を可能としているメカニズムを「無意識的結合生産プロセス」と「限界まちづくり」という言葉を使って提案したわけですね。

まちづくりに対する「ロマンチックな憧れ」の終わり

 本書で提案した理論によって、僕はまちづくりという営みをかなりの程度説明できるようになったと思う一方、僕の中で、なんというんでしょうか、まちづくりに対する「ロマンチックな憧れ」は終わったように思います。

 ロマンチックな憧れっていうのはどういうことかっていうと、20代のころの僕にとって、まちづくりってロマンだったような気がするんですよ。さっきも書いたとおり、人間が、金銭対価や契約といったものによらない、内発的かつ自己充足的な動機で行動し、しかもそれが集団行動となって他人を利するものとなる奇跡。そう、奇跡だったんすよね。当時の僕には。うまくいっているまちづくりには確かにそれがあって、やべえ!すげえ!って思っていたわけです。初めて手品を見た子供の気分ですね。

 無論、手品には「種も仕掛けもある」んですよね。それから大学院行ったり、自分自身もNPOや町内会の運営を経験して、いろいろ研究した結果、ここでいう「種と仕掛け」がわかってきたわけです。人間集団が奇跡を起こす条件も、ダメダメになっていく条件も、ある程度理論的に解説できるようになったし、その理論を応用した「種と仕掛け」で、まちづくりができるような良い集団が一定再現できるようにもなってきたと。僕がいた大学院は、応用社会学研究科っていう課程名だったんですけど、まさに社会学的知見を実践に応用することができるようになってきたわけですね。

 「種と仕掛け」がある程度わかった結果、かつて抱いていたような「ロマンチックな憧れ」っていうものが終わったんだろうなあと。なんか、この本のシリーズをどうにか30代のうちに電子化するところまでやりたいと思っていたんですけど、なんでかなあと思ったら、このロマンに30代のうちに決着を付けたかったってことなんじゃないかと今振り返ると思ったりします。

 だから、学生さんなんかから「まちづくりがやりたいんです!」と相談を受けると、ちょっと戸惑うんですよね。昔の自分を見ているような気がするのかもしれません。まちづくりっていうのは「人間のある営みに付けられた名前」なわけです。人間の行動にはなんらか目的があるわけです。いわばまちづくりっていうのは「手段」であって「目的」ではないんですね。なんていうんでしょう、「スマホ」みたいなもんなんです。「スマホを触りたいんです!」とは言わないですよね。例えば電話がしたいんです、とか、メールを送りたいんです、とか、ネットをしたいんです、とか、ゲームをしたいんです、ということがあって、そのためにスマホが要ると。

 というわけで、「まちづくりがしたい」学生さんには、で、何をしたいの?と聞いたりします。すると「子どもたちやお年寄りと楽しく遊びたいんです!」というような回答があったりするんですよね。なるほど、そういう状況を、その学生さんは「まちづくり」という言葉に仮託しているというか、そういう状況に関わる自分をうまく正当化してくれるのが「まちづくり」なんだなと。「じゃあ、例えば保育園や介護施設のボランティアとか探してみてはどう?」というような助言をしたりします。それは、別にまちづくりである必要がないっていうか、まちづくりに縛られるとその後の選択肢が制限されちゃう気がするんですよね。

 まちづくりの「種と仕掛け」が一定わかったことで、まちづくりに「できることと、できないことの線引」もわかってきたわけですね。逆に言えば、若かったころの僕は、まちづくりという営みに対し、ロマンティックな「どこまでできるんだろう」みたいな無制限の可能性というものを幻視していたんだろうなと

まちづくりを「うまく使う」

 むしろ、いま世の中にある事例を見回して、まちづくりとして一定の成果を出している人って、まちづくりを動機にしていないというか、むしろ、自分がしたいことを首尾よくやり遂げるために、まちづくりを方便にしてさえいるよなあ、と思います。ちゃんと道具は道具として使いこなしているというか。方便についてはこちらを参照のこと。

 自分のやりたいことを実現するために、まちづくりを方便として使う。そういう成熟した大人な態度を取る人達が、まあ、昔からいたんでしょうけど、僕は本書を書き上げることで、ようやく理解できるようになってきたのかもしれないなあ、というわけです。

 大変ありがたいことですが、しばしば「モテまち第三段はいつ書くんですか?」と聞いていただきます。書き手としてこんなに嬉しいことはないです。

 しかし、たぶんモテまち1・2を書く時の(あるいはそれ以前の博士論文を書く時の)モチベーションとしてあった「ロマンティックな憧れと、種と仕掛けを明らかにすることへの情熱」みたいなことに一定の決着がついた今、もし書くとすると、何か違う出会いみたいなものが必要になるんだろうなあと思ったりします。例えば、既存の種や仕掛けでは説明できない、摩訶不思議な奇跡を起こす人間集団に出会えたならば、僕は居ても立ってもいられないとばかりに、その研究をするかもしれないです。そういう現象と人生で何度も出会えるというのは、学者としては大変幸福なことだと思っています。

まちづくりという方便を使って、私達はこれから何をしようとするのか?

 講座でお話していると、「まちづくりはこれからどこへ向かうのか」みたいな質問をたまに受けます。まちづくりは単なる現象なので、それ自体はただただそこにあるでしょう。むしろ、人々がまちづくりという方便を使ってこれから何をしようとするのか、あるいはその目指すところの変化みたいなことに興味があります。

 かつてのまちづくり(本書でいうところの「まちづくり2.0」時代)、人々は国家や企業が上から行う大規模な「国土開発」へのアンチテーゼとして「まちづくり」という「方便」を編み出しました。それが公共主体の行うまちづくりへの計画段階への参加(まちづくり3.0)、実行段階への参加(まちづくり4.0)へと変化していきます。やがて、まちづくりは公的主体が税ベースで行うものだけでなく、民間主体が営利ベースでやっていっていいよねというコミュニティビジネスの方向へ向かいます(まちづくり5.0)。この流れは、公共主体に独占されたまちづくりを民間が取り返していく流れだったと説明することもできますが、一方で行政側からすれば、不足する公的サービスの運営資源に、人々のボランタリーな動きを動員するための、それこそ方便でもありました

 そういう流れを踏まえた上で、じゃあ次はなんだっていうと、本書の巻末で解説をしてくれた岸井大輔さんなんかは「一周回ってループするんじゃない?」と言っていたりします。それは同感です。ループというか、繰り返す輪廻というか、もしこの「まちづくり1.0〜5.0」への変化のプロセスを「近代(モダン)から近代後(ポストモダン)へ」の流れとみなすなら、私達の社会は再度「近代化」をやり直すことにこれからなるのかもしれない、その方便としてまちづくりは使われるのかもしれないなあ、なんてことを思ったりします。

 もしかすると、その「まちづくりの、次」を考えるための議論をするために必要な共通言語を提供するものとして、本書は使えるかもしれないし、もしそうだとすると、まちづくりに関わる者として、大変名誉なことだと思ったりもします。

 なんてことを、紙版を出して1年半経った今、そして1・2とシリーズを電子化する課程で、今読み直して、思ったっす。実に「大半の人にとっては、どうでもいい」話ですね。そこは僕自身も自覚していますが、もし奇跡的に、このあたりに興味がある変わり種の方がいらっしゃいましたら、是非ご一読くださいませ。そして、この本をもとに、「まちづくりの、この次」を語り合えたらいいなあと、夢見ています。

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