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創作のスランプから抜け出すヒントー古代ギリシアに学ぶー


noteに書くことが思いつかないときや、書いたものが全然面白くなかったとき、あなただったらどうするだろう。

どうして書けないんだろう、と自分を責めるかもしれない。

自分の勉強不足や努力不足だと考えて、
もっと勉強しよう、努力しようと自身を奮い立たせるかもしれない。


でも、自分を責めたり、奮い立たせたりするのとは異なる方法がある。
それが、今日紹介する、古代ギリシアの考え方だ。


スランプに陥ったときに

私が創作をしていてスランプに陥ったときに、この動画を思い出す。


この動画の話者エリザベス・ギルバートさんは、『Eat, Play, Love(食べて、祈って、恋をして)』の著者だ。この本は映画化もされている。私はこの映画が大好きで、以前noteにもちらっと書いた。


この動画の内容を要約すると以下の通り。

 『Eat, Play, Love』が世界的なベストセラーになってから、エリザベス・ギルバートは「終わった人」と捉えられ、もう生きている間にこれ以上のベストセラーを生むことはないだろうと周りからささやかれるようになった。
 彼女は、自身のこれからを案じながら、これまで作家をはじめ、クリエイティブなものを生業とする多くの人々が精神病や自殺に追い込まれていることを鑑みて、創造性というものを一個人の所産とすることに疑問を持ち始める。
 そうして、行き着いた一つの答えが、古代ギリシア・ローマの考え方で、それは、創造を、一人の人間ではなく、神(や精霊)の仕業と考えるというものである。

私は、彼女の言わんとしていることがわかるような気がする。

絵を描いたり、文章を書いたりしているとき、ふとアイディアが降ってくる瞬間がある。何枚も何枚も描いても思い通りにいかなかったのに、なぜか突然描けるようになることがある。

それは、自分の努力の成果、技術の向上というよりも、突然どこからかアイディアが降ってくるとしか言いようがないような感覚だ。

しかし、科学技術の発達によって、現代では、神や精霊の入り込む余地はほとんどなくなってしまった。だから、人外の力をはっきりと認めることには抵抗を感じる。もし目の前の人が、突然神や精霊の話をし始めたらきっと逃げ出したくなるだろう。

だが、芸術作品すべてが、自分の力で生み出したものだとすると、その作品を否定されたときには自分自身が否定されたような気がしてしまう。
作品がちっとも面白くないときには、自身も面白くない人間になってしまったように感じる。

古代ギリシアの考え方は、創造性につきまとうそうした不安から、自分を守ってくれる。


古代ギリシアと創造性

上の動画で端的に語られている古代ギリシアの考え方をもう少し掘り下げてみたい。

テクネとコレイア
意外に思われるかもしれないけれど、西洋文化の基礎を築いた古代ギリシアには、「芸術」を表す言葉も概念もなかった。

現在の芸術(=art)に含まれるような、絵画、彫刻、建築、音楽、文学、演劇、舞踊などを包括する言葉はなく、その代わりにテクネ(τέχνη)コレイア(χορεία)という言葉があった。

テクネは、規則があって、訓練を通して教えられる技術を指す。絵画や建築などもこれに当てはまるが、パンをつくったり、靴をつくったりすることも当てはまる。テクニック(技術)の語源でもある。

コレイアは、歌や踊りや演劇などを指し、神秘的で表現的なものとされた。コーラス(合唱、合唱舞踊団)の語源コロスと語幹が共通している。

古代ギリシアでは、テクネよりコレイアのほうが優れたものと考えられていた。



テクネ偏重の現在
現在、芸術は、努力して技術を蓄えていった成果として生まれるもの、もしくは一部の天才が努力せずに生み出すものと捉えられているように思う。
その二つが対置されるが、努力の有無という違いはあっても、どちらも芸術を卓越した技術を持つ者の生んだものと捉え、創造性の源泉を個人の内部においているという点は共通している。

おそらく、現代社会において、神によるインスピレーションを芸術家の本質と捉えている人は少ない。

つまり、現在の芸術観としては、テクネが重視されているといっていいだろう。

創造性は、努力によって得られるもの、もしくは先天的に備わっているもので、作品の責任はすべて作者にあるとされている。

現在あまり重視されていないコレイアとはどのようなものだったのか、その美的範疇を見てみよう。


コレイアとは
・ἔμπνευσις(エンプネウスィス)  インスピレーション
・ἔκστᾰσῐς(エクスタスィス)  茫然自失、忘我
・ενθουσιασμός(エントゥスィアスモス) 感動、狂気
・μαινάδες(マイナーデス)  デュオニソスの祭り
・καθάρσις(カタルスィス) 浄化
・μιμεσις(ミメシス) 表現

いくつか聞き慣れた言葉もあるだろう。
こうしたものが、コレイア的なものであった。

自分自身ではない、神がのりうつったときに現れるもの、それがコレイアだった。そして、神の声を聴き、自我を忘れ、狂気乱舞することで得られるカタルスィスこそがコレイアの目的であった。

カタルスィスは現代の芸術にも求められるものだが、現代ではこのカタルスィスを生み出すのは芸術家自身だ。

求められる芸術の効果は、神がいた時代と同じだが、古代では神の業とされていたものを現代では人間が自らやらなければいけないのである。

現代の世の中で、芸術作品を生み出すのは、苦しくて当然だ。

もちろんそれをやってのける芸術家もいるだろう。

でも、もしそれが苦しいのなら、コレイア的芸術観に立ち戻ってみてもよいのではないだろうか。エリザベス・ギルバートが提唱しているように。

「がんばっても上手くいかないのは、創作の精霊のせい。精霊がくるまで、今はちょっと待ってみよう。」

「今日は、なんだか調子がいいぞ。創作の神様ありがとう。」
といった感じで。

これを口に出して言ったら、ちょっと危ない人だと思われるかもしれないし、その責任を私は取れないので、心の中で言うことを推奨する。


創作をつづけていくために

創作活動をしていると、スランプに陥るときがある。

創作のスランプを、制作者の責任ではないといったら、無責任だと考えるのが普通だろう。

私も、いつも自分を責める。
どうして自分にはできないのだろうと。
もっと、もっと頑張らなきゃいけないと。

そして、見知らぬ誰かのこともそうやって責める。
この作者の本はつまらなくなってきたなとか、
この歌手の歌詞は前より響かないなとか。

でも、創作活動の源が(すべてではないとしても)制作者自身ではなく、別のところにあるのだとしたら、もう少し自分にも他者にも寛容になれるんじゃないかと思う。

自己反省や他者批判のすべてを否定するわけではない。
反省や批判が必要なこともあると思う。

でも、創作活動をしている自分や誰かを傷つけそうになったとき、すこし立ち止まって、古代ギリシアの考え方を思い出したら、傷つけずに済むかもしれない。

みんなが創作活動を楽しくつづけるのは難しいことだろう。
でも、もしあなたがいつかスランプに陥ったら、この話を思い出してみてほしい。





付記:
この記事は、Art saryo物語の連載のricetta5として書きました。

この連載は、芸術をもっと身近に楽しもうというコンセプトの連載です。
この前、日曜日に更新すると宣言していたのですが、昨日ricettaのアイディアが突然降ってきたので更新しました。

Art Saryo物語は、連載形式をとっていますが、すべて1話完結となっております。これまでは連載だとわかる見出しにしていましたが、時間のない方・初めて読む方が躊躇してしまうかもしれないと考え、今回から見出しには書かないことにしました。

この連載が気になるという方は、マガジンにまとめてありますし、本記事の最後にもまとめますので、ご参照ください。


◆Art saryoのコンセプトが知りたい方はこちら。


◆ricettaって何?という方はこちら。美術館の楽しみ方のアイディア集。


◆絵画の見方の一例を物語風に綴っています。

◆番外編。この連載を書いている筆者がどんなふうに美術とつきあってきたのかを語っています。

◆夏の暑いときにおすすめの芸術作品をまとめました。


◆政治を変える力をもつ芸術についてのお話。政治なんてわからないと思う方にこそ、読んでいただきたい記事です。