マチネに出かけて
先月、平野啓一郎さんの小説『マチネの終わりに』を題材としたコンサートに出かけた。
マチネ(matinée)とは、フランス語で、昼間の演目のこと。
コンサートは、昼間に行われたから、私は『マチネの終わりに』のマチネに出かけたということになる。
作家ご本人のトークと、ギタリストの福田進一さんの演奏が聴けるという、なんとも豪華なマチネであった。
『マチネの終わりに』は、映画化されているので、知っている方も多いだろう。
クラシックギター奏者が主人公のこの物語は、古典的な男女のすれ違いを描いているのに、こんな物語は読んだことがないと思える、不思議な読後感がある。
映画化で話題になる前から、私はこの本を読んでいた。
私が平野啓一郎さんを知ったのは、国立西洋美術館で開催された「非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品展」だった。
国立西洋美術館には何度も訪れているので、その展覧会に出ている作品の多くは既に目にしたことのあるものだった。だが、平野啓一郎さんをゲストキュレーターとして迎えたその展覧会で、作品たちは、それまでとは異なる輝きを放っていた。
決して作品が一つの物語の挿絵として扱われているわけではないのだが、物語の世界に迷い込んだような感覚があった。
こんな展覧会は、はじめてだった。
図書館で、新刊コーナーで『マチネの終わりに』を目にしたとき、あのときの展覧会の人だ!と迷わず手に取った。
物語を読んでいる間、この作者は、なんて鮮やかに言葉を使うのだろうと思った。
物語を読みながら、あの展覧会を思い出していた。
作品が、鮮やかによみがえった展覧会を。
この小説は、クラシックギター奏者が主人公だから、小説の中で音楽が奏でられる。
実際には、小説から音が聞こえるわけではないけれど、この小説を読んでいる間、ずっとクラシックギターの演奏が頭の中で流れていた。
私は、学生時代マンドリン部でフルートを演奏していた。
マンドリン部には、クラシックギターパートもあった。
私は、フルートパートだったが、クラシックギターの音を聴くのがとても好きだった。
クラシックギターのCDは、部活を辞めてからもよく聴いていた。
だから、この小説の中に出てくる曲は、知っている曲も多く、イメージしやすい。
コンサートでは、この物語の作者である平野さんのトークから始まった。
司会者の方から、『マチネの終わりに』を書こうと思ったきっかけは?と尋ねられ、平野さんはこう答えていた。(メモを書き起こしているので、一字一句正確ではないがだいたいこんなお話だった。)
次の小説をどんなものにしようかと考えていた頃、東日本大震災や、原子力発電所の事故をはじめ、信じられないようなことが次々と起こる中で、すこし現実世界に疲れてしまって。
つかのまでいい。
つかのまでいいから、美しい物語に浸りたかった。
ショパンの生涯を描いた『葬送』をたまたま読み返す機会があって、これを書いていたときの自分は幸福だったな、って。
そんなときに、福田さんから送られてきたCDを聴いて。
そのCDの中には、バッハの曲もありました。
バッハって、彼が生きた時代は宗教観も今とは全く異なる時代だから、それまでは理解できなかったけれど、福田さんの奏でるバッハを聴いたら理解できそうな気がしたんですよ。
私は、その話を聴いて、「美しい物語に浸りたい」という作者の想いこそ、私にこれまで読んだことがないと思わせるものだったのかもしれないと思った。
何かを訴えたいというよりも、ただただ美しい物語を書きたいという純粋さというか、ひたむきさのようなものが、この小説には通底している。
つづけて、コンサートでは、この小説を生むきっかけともなり、この小説の映画版でも奏者を務めた福田進一さんの演奏を聴いた。
福田さんは、一つ一つの曲を解説しながら弾いてくださった。
これは、映画のこんな場面で使われていたんですよ
この曲には、こんな背景があってね、ここが聴きどころです
と、観客に解説するというよりも、観客とおしゃべりを楽しんでいるように話していた。
福田さんの話で、一番印象に残っていることがある。
ぼくは、この『マチネの終わりに』の映画でいろいろなことを要求されて…
福田さんがそこで一息ついたとき、私は、つぎに続く言葉は「大変でした」だと予想した。
でも、福田さんは、前を向いて、笑顔でこう続けた。
…本当に楽しかった。
ああ、これがプロなんだなと思った。
心から大変なことを楽しんでいて、その姿に人は魅了されるんだって。
私は、前から2番目の席で聴いていたから、ギターの音はもちろん、福田さんのブレスの音も聞こえた。
フルートは、息継ぎをしないと演奏できない楽器だが、マンドリン部にいるときは弦楽器を演奏する人たちも、大事なところで息継ぎをするんだなと、傍で見ていて思った。
福田さんの息を吸う音は、CDでは聴こえない。
でも、息遣いまで含めて、音楽なのかもしれないと私は福田さんの息の音を聴いていて感じた。
ギターの音は、大学生の頃サークルで聴いていたから懐かしいというのもあるが、おそらくギターの音にノスタルジックなものを感じる人も多いのではないかと思う。
マンドリン部に入っていたとき、マンドリンの講師の先生がこんな話をしていた。
マンドリンオーケストラは、オーケストラのミニチュアみたいなものだ。
でも、ミニチュアには、ミニチュアのよさがある。
福田さんの演奏していた曲は、原曲がピアノ曲のものも多い。
バッハの曲も、元はパイプオルガンのために書かれたものだ。
でも、パイプオルガンの荘厳な音に比べたら、ミニチュアのようなギターの音の方が私たちの胸に響くということもある。
平野さんも話していたように。
ささやかなギターの音色は、私たちの胸に響く。
福田さんの奏でるギターの音色は、とても鮮やかだった。
私は、福田さんのギターの音色に誘われ、留学したときに旅したパリやスペインの風を思い出したり、サークルで演奏した日々に想いを馳せたりした。
特に色鮮やかによみがえってきた思い出がある。
それは、サークルでの最後の演奏会の日のこと。
私は、なぜか演奏会の数日前から、フルートの音が出なくなっていた。
原因はよくわからない。
口が思うように動かなかったのだ。
焦って、練習しすぎて、口が麻痺していた。
授業の発表準備のため、徹夜の日が続いていた。
ピッコロの音は出たので、ピッコロのパートはよかった。
でも、フルートの高音が出なくなっていた。
本番でも、音はでなかった。
私は、悔しくて、悔しくて、本番の演奏中もフルートを口にあてながら、涙が零れた。
演奏会が終わってからの数日間、私はずっと泣いて過ごした。
サークルで過ごした3年間がすべて水の泡になってしまったようだった。
でも、私は社会人になってから、フルートを買った。
私は、留学している間、たくさんの演奏会を聴いて、またフルートが吹きたくなっていたのだ。
過去の自分に負けたくない。そんな気持ちもあった。
わたしの恋人は、同じサークルの先輩だ。私と同じく、フルートを演奏していた。
彼が奏でるフルートは、とてもやわらかくてやさしい音だ。ビブラートはほとんどかからないけれど、まっすぐ美しい音色を出せる。
私は、きらきらした音色だねとよく褒められた。私は、ビブラートがかけられるが、あまり肺活量がないので、長く息がつづかないし、音がかぼそい。
けれど、二人で演奏したら、お互いを補い合って、いい演奏ができるかもしれない。
まもなく彼と暮らすことになる家は賃貸なので、なかなか二人で演奏するのは難しい。
でも、いつか二人でアンサンブルができたらいいなと思う。
小説『マチネの終わりに』の中の主役の二人が出会う場面で、主人公がこんなことを口にする。
「人は、変えられるのは未来だけだと思いこんでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるともいえるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
平野啓一郎『マチネの終わりに』毎日新聞出版、2016年、29頁
大切な過去を、未来が台無しにしてしまうこともあるかもしれない。
でも、きっとその逆だって、起こるんじゃないかって。
しあわせな未来が、悲しい過去を変えることだってできると、私は信じている。
(アマゾンプライムに入っていらっしゃる方は、このアルバムを無料で聴けるので、ぜひ『幸福の硬貨組曲』を聴きながら、過去に想いを馳せてみてください。)