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透明な時間

自分にとって心地よいことをしているとき、自分が透明になっていくような気がする。

窓をあけて、空気を入れ換えたときのように、自分の中にすっと心地よい風が入って、自分自身が空気になっていくような、そんな感じ。

長田弘さんの詩を読んでいると、そんな気持ちになる。

朝の、光。
窓の外の、静けさ。
おはよう。一日の最初の、ことば。
ゆっくりとゆっくりと、目覚めてくるもの。
熱い一杯の、カプチーノ。
やわらかな午前の、陽差し。
遠く移ってゆく季節の、気配。
花に、水。
眠っている、猫
正午のとても短い、影。
窓のカーテンを揺らす、微風。
ー「地球という星で」より一部抜粋

長田弘『人はかつて樹だった』みすず書房、2006年、pp.50-51

一つ一つの言葉がすっと入ってきて、気づけば深呼吸している。

 

最近、気分が塞ぎこんでしまうことがあった。何か特別なことがあったわけではない。季節の変わり目のせいで少し怠かったり、人と比べてしまったり、過去の自分を思い出して自己嫌悪になったりしていただけ。お母さんと出かけていて、お母さんに奢られながら、どうして私はお母さんに奢ってあげられないのだろうと思ったりした。お母さんは、楽しかったね、おいしかったねと喜んでくれていたけれど、私はちょっと悲しかった。素直に楽しめない自分が嫌になった。

でも、長田弘さんの詩を読みながら、塞いだ心に風が通っていった。

そうして、私は、床の間に花を活けて、アリス=紗良・オットさんの『ナイトフォール』という「逢魔が時」のアルバムを聴くことにした。以前、このアルバムと同題の彼女コンサートに友達と行った。その友達のテーマソングが、ベルガマスク組曲のプレリュードだと言っていたから、その子を誘った(私は定番だけど、3番の月の光が好き)。裸足でステージに立つアリス=紗良・オットさんは、とても心地よさそうで、深々と、でも気取らないおじぎをしている彼女の姿が印象に残っている。彼女のピアノの音は、ほとばしる滝のようなイメージ。清々しくて凛としている。昼間も好きだけど、雨の音に彼女の奏でる夜の音楽が寄り添うような気がするから、雨の日は昼間から夜の音楽を聴く。窓の外で庭の木々に降り注ぐ翠雨、雨の中摘んできた花、夜の音楽の調和を楽しんでいるうちに、自分と世界の境界線がなくなっていった。

それから、図書館で借りた本を読んだ。小さい頃から本を読むのは好きだったけれど、イタリアから帰ってきて以来日本語の本を読むのは私にとって水を飲むような感覚になった(もちろそんなふうには読めない難解な本もある)。コーヒーを飲みながら、淀みなく流れる言葉を感じていた。コーヒーは、ケーキ屋さんで買ったコーヒー豆を挽いて、琺瑯ポットでドリップする。手間はかかるけれど、コーヒー豆を挽くとき、甘やかな香りが漂って、お湯を注ぐと豆がむくむく膨らんでいくのを見ていると、幸せな気持ちになる。カフェインに敏感なため、2時以降は飲まないようにしているけれど、この香りが朝を始めるのに欠かせない。長田弘さんの詩も朝に読むと、その日一日が鮮やかになるような気がする。

以前は、詩というと国語の時間のイメージが強くて、なんとなく、難しくて遠いものと思い込んでいた(韻を踏む、とか掛詞とか)。でも、フランス詩を専攻している美しい先輩から、ももちゃんの文章って、ちょっと文月悠光さんの文章を思い出すの、と言われて、文月悠光さんのエッセイを手に取って以来、現代詩のコーナーをときどき見るようになった。いくつか詩集を繰りながら、こんなにも美しい世界があるんだとそのときになって気づいた。わからないからと倦厭するより、わかるところだけ楽しんだらいいんだなと思えるようになった。

 

重苦しくて動けなくなっている自分に気づいたら、自分にとって心地よいことをしよう、と思う。いつもやらなければいけないことが、やりたいこととは限らない。やらなきゃいけないとわかっているのに、やれない自分を嫌いになるより、心地よいことをやって心を軽くしたらいい。



ヘッダー画像は、以前ドイツを旅行した時にお城から撮った写真。ワーグナーのために城主が用意した部屋らしい。ワーグナーというと雄大なイメージがあるけれど、私は彼の音楽で木管楽器がキラキラした部分を担当しているところが好き。このキラキラを聴くと、この窓からみた湖畔の水のきらめきを思い出す。あの偉大な作曲家も、この窓から吹き抜ける風を感じて、息抜きしていたのかな、と勝手に想像している。