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「 」に入れてみる

久しぶりに祖母の家に出かけた。

お彼岸のときはバタバタしていて、お墓参りにはいけなかったから、
祖父の遺影が置かれた仏壇にお線香をあげる。
お線香の香りが好きだ。

私自身は、特定の宗教を信仰していないし、なにかこれといった思想があるわけでもないけれど、亡くなった人を偲ぶ時間は大切にしたい。


信仰はないと言ったが、留学中は雨宿りするような気軽さで教会に入ったし、日本でもとくに用事がなくてもお寺や神社を散歩する。雑然とした街の中とは異なる空間に身を置くと、なんとなく背筋が伸びるような気がする。

私の家には、聖書があるし、神社や寺に御朱印帳をもって出かけるし、さまざまな哲学書や自己啓発系の本も結構読む。

この羅列で、自己啓発書を並べるのに少し違和感を覚える方もいるかもしれない。聖書は、西洋美術研究に欠かせないから手に取ったけれど、聖書も現代の自己啓発書も、同じようなことを言っているなと感じることがある。

「明日のことを思い悩むな」とか。

自己啓発書では、よくマインドフルネスが提唱されているけれど、”今この瞬間のことだけを考えよう”というメッセージは聖書とも共通していると思う。


私が、そうした本を読むときに意識していることがある。
「~しなさい」とか「~すべき。」と書かれている場合、普通に考えればそれは読者に向かって言っていると受け取るだろう。

(あなたは)~しなさい。
(あなたは)~すべき。

そういうふうに読むことは、きっと正しいことで、そうやって信者や読者の背筋を伸ばすことを目的に書かれているのだと思う。


でも、私は、それを受け入れられることも、受け入れられないこともあっていいと思っている。なんとなく気に入ったところだけ取り入れる、そんな風に自由さと気軽さをもって本に向かう。


私が本を読むときには、

~しなさい。」と聖書は言っている。
~すべき。」とこの本の筆者は思っている。

と勝手に「 」の中に意見を入れてしまう。


noteを読むときも、人と話しているときも、そんなふうに人の意見を「 」の中に入れてしまうことがある。

それは、ちょっと冷たいことかもしれない。

日本語は主語が曖昧だから、すべてを他人事ではなくジブンゴトとして受け取ることもできる。
でも、それだと、自分が少し苦しくなってしまったり、意見を発している人に反感を抱いたりしてしまうことがあるのかなと思う。


優しい人にはなれない。
でも、優しい人だと思われたい。
私がやっているのは、そんなエゴでしかない。
けれど、キャパオーバーになって、本を投げ出したり相手をシャットダウンしてしまう前に、できるだけ「 」に入れたいなと思っている。

意見をぶつけ合うことも、ときには必要かもしれない。
そっと離れることだって、あると思う。


だけど、自分のことも、相手のことも傷つけないように、伝えることや、受け取ることもできるということを忘れずにいたいなと思う。





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