壊れかけのマグカップの行く末
お気に入りのマグカップにヒビが入ってしまった。
ホットミルクを作ろうとして、マグカップを電子レンジで温めた。
そのマグカップは、電子レンジに対応したものではなかったことに、うっすらと入ったヒビを見て気づく。
わずかなヒビでも、そこから水が滲む。
もう使うことができなくなってしまった。
それでも、捨てるのはしのびなくて、食器棚の奥の方にしまっていた。
そのマグカップは、3年前の正月に、父に買ってもらったものだ。
父と母と、初詣に出かけた先で、父のお気に入りのお店に連れて行ってもらった。
こじんまりとしたギャラリーのようなお店には、作家さんがつくった食器が並んでいた。
淡い水色のマグカップに目がとまる。
その浅葱色のカップに、緑茶を入れたら綺麗だろうなと思った。
私がそのマグカップを手に取ってじっと眺めていたら、父がそのマグカップをひょいっと取ってレジに持って行く。
ちょっと早いけれど、誕生日プレゼントにしようと言って。
私が思い描いたとおり、このカップで煎れるとお茶は美味しそうに見えた。
ぽってりとした質感と、やわらかな口当たりも気に入っていた。
それなのに。
私の不注意で、使えなくなってしまった。
お父さんは、モノはいつかは壊れるものだから、と言って私を責めなかったけれど、それでも私は悲しかった。
しばらく食器棚にしまわれていたマグカップ。
しかし、それがまた使えるようになった。
父が、マグカップを復活させてくれたのだ。
「金継ぎ」という技法をつかって。
金継ぎとは、漆で接着したところに、金箔を施す補修方法だ。
父は、以前から、金継ぎに興味があったらしい。
父は、陶芸家でも料理人でもないけれど、料理が好きで、食器にもこだわりがある。おいしいものは見た目からおいしいものだ、というのは父の口癖だ。
でも、金銭的余裕はないから、たくさんの食器を買い揃えることはせずに、食器屋さんや陶器市に行くと、ひとつふたつ気に入ったものを見繕ってくる。
父が食器を買ってくるたびに、「なんでも鑑定団」で覚えたような知識を披露されるのは鬱陶しかったのだけど。
いつのまにか、私も食器を眺めるのが好きになった。
父は、新しい食器を買ってくると、さりげなく食卓で使いはじめる。
食卓に並んだ新しい食器に、いちはやく気づいて、それをいいねと褒めるのはいつも私だ。
先日のこと。
しばらく食器棚の奥で眠っていた水色のマグカップに、金色の筋が入って、テーブルの上に置かれていた。
父がその数日前に買ってきた金継ぎのキットを使って、マグカップを補修してくれたのだと、私は即座に理解する。
しかし、残念ながら、父はあまり器用ではないので、金継ぎした部分は少し不恰好。
線は震えているし、ところどころ余計なところにも金が付着している。
それに、こんなに堂々とした太い線ではなく、ヒビかと見紛うくらいのさりげなさで、日本的なワビサビを感じさせるのが金継ぎの良さなのではなかろうかと、私の美意識は訴えかけてくる。
けれど、私は。
この線を、愛おしいと思った。
不恰好でも。
私の美意識に沿わなくとも。
その震える線には、父の優しさが滲んでいる。
金継ぎされたマグカップを眺める私に、父は、「気に入った?」と尋ねる。
「ちょっと線が太すぎるんじゃないかな」と私は言う。
幾つになっても、素直になれない娘でごめんなさいね。
でも、きっと父も気づいているはずだ。
私が、その日から毎日水色のマグカップを使っていることに。