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二十代後半、女性、世間的には高学歴バリキャリ。今は結婚してまあまあ私生活も仕事も上手く…

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二十代後半、女性、世間的には高学歴バリキャリ。今は結婚してまあまあ私生活も仕事も上手く行ってて幸せに暮らしてます。それでもわだかまってる家族のこととか世界との断絶のこととかを文章にします。名無しらしく初期アイコンに戻しました。

最近の記事

そろそろ人間になりたい

母に殴られて育った。ほぼ毎日だった。母が憎かった。夜中に眠れず、ベッドを抜け出して台所に行って、包丁を握りしめてうずくまっていたことがある。寝ている母の首にこれを突き立てたら母を殺せるだろうか。私は捕まるのだろうか。ニュースになるのだろうか。あの人のために自分の人生を棒に振る価値などあるのだろうか。そう考えていたことは覚えている。 母にどう殴られたのだったか。グーで、頭だった気がする。一度殴られると、何度も連続して同じ場所を殴られた気がする。顔はあまり殴られた記憶がない。髪

    • 私を大事にしてくれた人のこと

      長年お世話になっているカウンセラーがいる。その人に「あなたはおばあさんがいたから生きてこれたのかも知れませんね」と言われたことがある。私はその時不思議だった。おばあさんとは、同居していた父方の祖母のことだが、私はカウンセラーに聞かれるまで存在をほとんど忘れていたのだ。 そして、それを言われて、ぶわっとたくさんのことを思い出した。 うちは私が生まれたとき、父方の祖父母、私の両親、兄の6人家族だった。が、私が3歳くらいのときに祖父が癌で在宅での闘病の末に死に、私が中学のときに

      • 手にしたものが日ごと色褪せていくことについて

        タイトルは浜田省吾「青春のビジョン」より。 私は結果が読めない勝負をしない。私は自分に課す期待の水準が高い。それは私が私にこれ以上失望しないための防衛策だ。 私は今、それなりの企業でそれなりの役職についている。これは自ら手を挙げ、事業計画をプレゼンし、勝ち取ったものだ。私は結果が読めない勝負をしない自分が嫌いだった。だから、そのポジションの募集が出たときに、まさか実績的にも能力的にも自分が選ばれることはないだろうと思いながら、どうにでもなれと思いながら応募した。エントリー

        • 坂口安吾全集を売った日

          思い出話をしよう。 私は東大の日本語日本文学の研究室に学部〜修士課程まで、合計5年在籍していた(学部で1年留年している。研究室配属前を含め、大学を7年かけて卒業した計算になる)。専攻は散々迷ったけど近代文学で、これも散々迷ったけど、実はタイトルの坂口安吾ではない作家を研究していた。といっても研究と言えるほどのことは何一つできていなかったけど。 坂口安吾について、私は先行研究より深く研究できる気がしなかったし、これは初めて言うのだが、読んでいて辛くなってしまって全集を読み通

        そろそろ人間になりたい

          悪者がいないという地獄(後編)

          母親が子を殴り、人格否定しながら育てた場合に、「でもお母さんもお母さんで大変だったから仕方ないじゃない」が成立するのかについて、子供たる私の考えを書く。 なぜその問いにたどり着いたかは前編に書いたのでよかったら見てください。 さて、まず、お母さんも大変だったのか、事実から書いていく。多分大変だったんだと思う。色々な事実から、恐らくだが、母の生育環境にも何らかの問題があったのだろうと思う。 また、父と結婚したのちは、祖父母との折り合いは決して良くなかったし、家のことを当然

          悪者がいないという地獄(後編)

          悪者がいないという地獄(前編)

          母と兄は日常的に私を殴り、人格を否定し、容姿を貶めた。父は気付いていないはずがないのに、何も言わず、何もしなかった。小学校、中学校では私はいじめられ、いじめられていることを母と兄には馬鹿にされた。 10代の私は彼らへの怒りで生きていた。怒りが持てたということは、根本に自分は生きている価値がある存在であるはずだという信念があったからだろうが、それはもしかしたら祖母や他の大人との関わりで育まれたものかも知れず、私が死ななかったのは本当にただの幸運だった。そうでなければ彼らの扱い

          悪者がいないという地獄(前編)

          「でも、ここまで育ててもらったんでしょ?」という言葉

          「でも、ここまで育ててもらったんでしょ?」 「世の中には大変な人はたくさんいるから、あなたは恵まれてるよ」 これはとても残酷な言葉だと思う。人の地獄に相対はない。私はそう思っている。一人一人の、一つ一つの地獄が、ただ個別の事象として存在しているのだから、比べられるものではない。 確かに衣食住に不自由したことはなかったし、現役で東大に行けるくらいの教育費はかけてもらった。学部の学費も出してもらった。しかし、それは私のためにお金をかけたのではなくて、母の見たい物語を作るため

          「でも、ここまで育ててもらったんでしょ?」という言葉

          なぜ家族のことを書くのか

          家族のことを書いていると、忘れていたシーンを驚くほどたくさん思い出す。 パジャマのまま玄関から締め出されて、通行人に横目で見られる恥ずかしさ。小学校で脊椎側湾症という病気だと言われ、母に病院に連れて行ってもらうよう頼んだけど、うるさいと一喝されたときの目の前が真っ暗になった感じ。熱を出すたびに怒られたこと。小学校のドッジボールのチーム分けで、いつも誰からも望まれず最後まで残ってしまっていたこと。 その度に悲しかったり、辛かったり、怒りが込み上げたり、泣いてしまったりする。

          なぜ家族のことを書くのか

          虐待されていた私がなぜ助けを求めなかったか

          虐待相談ダイヤルに電話をかけ、ワンコールで切ったことが何度もある。私に目をかけてくれていた小学校の先生に「悩んでることない? なんでも言って」と言われて、涙を必死に堪えながら黙って首を振り続けたこともある。母と兄から殴られる毎日はもちろん辛くて、家出をして生きていけるだろうか、実家を出るその日まで私は自分を殺さずにいられるだろうかと、ずっとぐるぐる考えていた。 私はそれなりに知恵があったから、助けの求め方は知っていた。自宅のWindows98で、助けを求めた後どうなり得るか

          虐待されていた私がなぜ助けを求めなかったか

          自分が救われるために書くnote

          個人的な話をします。読んだら悲しむ人がいるから、匿名で書きます。現在アラサー、女性、地方出身、大学進学を機に上京、世間的には高学歴でバリキャリです。 「私が死んでも、あいつらはさほどダメージを受けなさそうだから、死んだら負けだ」と思って、歯を食いしばって生き残ってきた経験はありますか。心から人を殺したいと思って、「あんなやつらのために自分の人生を棒に振ることはない」と思い直して、歯を食いしばって行動を制御してきた経験はありますか。 10代前半、私は何度も考えました。そして

          自分が救われるために書くnote