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そろそろ人間になりたい

母に殴られて育った。ほぼ毎日だった。母が憎かった。夜中に眠れず、ベッドを抜け出して台所に行って、包丁を握りしめてうずくまっていたことがある。寝ている母の首にこれを突き立てたら母を殺せるだろうか。私は捕まるのだろうか。ニュースになるのだろうか。あの人のために自分の人生を棒に振る価値などあるのだろうか。そう考えていたことは覚えている。

母にどう殴られたのだったか。グーで、頭だった気がする。一度殴られると、何度も連続して同じ場所を殴られた気がする。顔はあまり殴られた記憶がない。髪を引っ張られ、床に倒され、お腹を蹴り上げられたことがあるような気がする。首を締められたことがあるような気がする。いやそれは母だったか、誰か男の人の手だったような気もする。靴で頭を踏まれたことがあるような気がする。夜に玄関から締め出されて寒さと恥ずかしさに震えていたような気がする。シーンだけ覚えていて、前後のことは思い出せない。

成人して、聞いたことがある。なぜ殴ったのかと。母は殴ったことを覚えていなかった。

今は何だか全て夢だったような、何かの間違いだったような、私の妄想のような気もする。母は本当に私を殴ったのか。記憶違いではないのか。

昨夜も横になりながらそんなことを考えていたら、急に頭を殴られた時のイメージが浮かんで、体が硬直した。体を丸めて、クッションを握りしめて、全身に力が入って、嗚咽が止まらなくなった。それで、殴られる直前の体のこわばりの感触を思い出した。しばらくして落ち着いた。肩で息をしながら、ああやっぱり事実だったんじゃないかと思った。でも別にそれも事実だと思い込んでいたらそのくらいの反応は起きてもおかしくないのかもしれない。

子供の頃の私はどこにいたのだろうか。今の私と地続きで繋がっている気がしない。私は、なんだか、20歳くらいのとき、急にこの世に現れたような気がする。20年分の偽物の記憶を持って。他の人にそれがバレてはいけないから、過去の話や、家族に関する話は避けてきた。他の人と同じように感じ、同じように笑い、同じように悲しもうと努力して、まだ生まれたてだからそれも下手で、いつもタイミングがズレてしまう。そうは言ってももう少しで30歳になるし、10年も演技をしているのだから、上達してもいい頃だとは思う。だってこんなに努力してるんだから、そろそろ私も人間になりたいな。

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