見出し画像

坂口安吾全集を売った日

思い出話をしよう。

私は東大の日本語日本文学の研究室に学部〜修士課程まで、合計5年在籍していた(学部で1年留年している。研究室配属前を含め、大学を7年かけて卒業した計算になる)。専攻は散々迷ったけど近代文学で、これも散々迷ったけど、実はタイトルの坂口安吾ではない作家を研究していた。といっても研究と言えるほどのことは何一つできていなかったけど。

坂口安吾について、私は先行研究より深く研究できる気がしなかったし、これは初めて言うのだが、読んでいて辛くなってしまって全集を読み通すこともできなかった。だからぎりぎりに対象を変えて、迷いながら修士課程を過ごして、そのまま修論に何も書かず、結局逃げるように退学した。指導教官に最後の挨拶に行った帰り、キャンパスで個人的にシンパシーを感じていた隣接分野の先生と行き会って、「私今日で最後なんです」と言ったら「そうか、そうですか……。うん、そうだね、ご苦労さまでした」と、一言ずつ何かを考えるようにゆっくり言われたのを覚えている。

晩秋の昼下がりで、銀杏並木が目の覚めるような黄色で綺麗だった。その先生が、そういえば、去年の授業で教室に入るなり「門の銀杏が黄葉し始めましたね」と言っていたことを思い出した。

駐輪場に行って原付の鍵を回し、エンジンの振動を感じながら、これで本当に最後だ、もうここにはこないと思った。東大本郷キャンパスは広いので、駐輪場から校門までは歩くとそれなりの時間がかかるのだが、原付にまたがると一瞬だった。いつもは赤門ではない門を通るのだが、その日は赤門からでて、振り返らず、春日のアパートに帰った。正味10分もかからない。

帰宅すると、書架や床に山積みされていた論文のコピーを集めた。たくさんあるので重くて一度には持てない。いくつかに分けて縛っておいた。翌朝、何回か階段を往復してアパート前のゴミ捨て場に捨てるつもりだった。

本は、お金がなくて多くは買えなかったけど、それなりにあった。書架から高かった本を選んで、スーツケースに詰められるだけ詰めた。その中には坂口安吾全集もあった。日本国語大辞典(略して日国大)という、専攻時代を問わずの必携書もあった。一冊一冊が高くて、無理して買った日の高揚した気分をまだ覚えている。

スーツケースは原付には乗らなかった。スキー合宿に行く用の大きなものに本をいっぱい詰めているので、ちょっと笑っちゃうくらい重かった。ずるずると引いて電車に乗り、二駅で神保町。またずるずると引いて、たまに止まって休みながら、目星をつけていた古本屋さんに入った。「これ全部売りたいのですが」、「査定しますので店内をご覧になってお待ちください」。

店内をご覧になってお待ちください。脳内でリフレインした。そこにあるのは多くは年季の入った紙の箱に収められた近代の本だ。一冊一冊の値段はそれなりにする。当時、学費免除と奨学金で暮らしていた学生が手慰みに買うようなものではなかった。もうすぐ査定が終わって、そしたら私は、この空間に用ができることはもう二度とないのだろう。背表紙を眺める気にもなれず、ひたすら携帯をいじって待っていた。

スーツケースの中身は6万円になった。「ありがとうございました」。頭を下げ、随分と軽くなったスーツケースを引いて店を出た。お金ができたので、何か食べて帰ろうかとも思ったけど、結局そのままきたときと同じルートを通って帰宅した。そしてスーツケースを置いて原付に乗り、近くの八百屋さんに行って、安く売っていた葉物野菜をいくつか買った。

この八百屋さんは、私が本郷に来たばかりの時は私に「お嬢さん」と呼びかけてきた。いつからか「お姉さん」と呼ばれるようになった。店頭には珍しいものが普通に安く並んでいて、アイスプラントや宇宙芋、今では珍しくないが当時はほぼ見ることのなかった根付きのパクチーなど、色々なものを見るたび買った。エリアとしては小石川のあたりで、品のよい老婦人が多かった。買ったものを袋詰めしているとたまに話しかけられて、アイスプラントの料理の仕方を聞かれてその場でググってレシピ談議したりした。

その日は特段珍しい野菜は売ってなかった。近くの魚屋に寄ってあさりを買った。帰宅して、あさりを軽く砂抜きしてお味噌汁にして、買ってきた葉物と冷蔵庫の卵で炒め物を作って食べた。

思い返すと、学部3年生の時も迷いながら就活もしていた。エントリーシートを100通近く書いて、ほとんど落ちた。専攻に進んでも、二次面接あたりでことごとく落ちる。途方に暮れていた時、先輩の話で、学費免除で奨学金を貰えば院に進学してもやっていけると分かった。それで進学を決めた。元々、感情やなりゆきというものがうまく理解できないタチで、合理性の世界で生きていきたいと思っていた。

貸付型の奨学金は月8万円ちょっと。それとバイトで通常月の手取りは14万くらい。実家からの経済的な援助はなく、住民票を移して一人世帯として独立することでそれを証明し、学費免除基準を満たした。が、制度上どうしても1年目の前期は免除にできず、入学金と前期分の授業料は払うことになった。そうして半歩足を踏み入れた研究の世界は、思っていたより暗かった。目が覚めるような鋭さを感じさせる先輩もいたし、そうでもなさそうな人もいた。師匠と弟子の世界で、暗黙のルールもたくさんあった。元社会人の博士課程在籍者で、タイミングが悪くポストにつけないままの人がいて、会えばよく話したのだが、そのうち研究室で見かけなくなった。修士過程で研究室に入り浸ってるわけでもない私には、博士課程の人達の動向は入ってこなかった。ただ、論文を読む限り、なんであの人が学振を取れてあの人が取れないのか、なんであの人が助教であの人が違うのか、というようなことは感じた。論文の良し悪しも私に分かってたかは怪しいので、あまり意味のないことかもしれないけど。

でも、知っている範囲、博士課程以上で活躍している人達はほぼほぼ実家が裕福だった。裕福と言っても、日本文学の特性なのか、億万長者みたいな人はそういなかったが、少なくとも都内か横浜の実家から通ってるような人達だった。

ゼミでも、飲み会でも、最低限これを読んでなければ発言してはいけない、と言った暗黙のラインがあった。全集を揃えていることがやる気のバロメーターという空気もあった。私はいつも劣等感を抱えて口をつぐんでいた。

専攻していた近代のゼミと、源氏と万葉集のゼミの準備、学会の手伝い、研究会、自主ゼミ、先行論文・先行作品を読む。私は必要最低限のことだけをして、バイトをして半年分の学費と本代と日々のコピーカード代を作っていた。そうして、ようやく専門の作家の全集を買い揃えたころ、全く周りについていけない自分に気づいた。

バイトもせず、実家に帰ればご飯があり、起きれば洗濯して畳んだ服が用意されている同期が、私に対して「それも読んでないのか、こんなことも知らないのか」という目を向けてくる。これは同期の方が正しくて、事情はどうあれパフォーマンスで評価される世界で、そもそも必要最低限のインプットがなく、時間的金銭的投資をしていない私は、修士失格だった。

私は彼らをほとんど逆恨みのように憎み、その思いを口に出すことはなく、かと言ってそれをバネに頑張ることもなく、ずるずると無為に日々を重ねた。そもそも、文学研究にかける情熱も真剣味も、私には圧倒的に足りていなかった。修士1年の冬には就活をすることにし、売り手市場だったため最初に受けた企業で内定が出て、就職を決めた。修論は出すつもりだったが一向に向き合うことができず、修士2年の秋に退学を決めた。同期たちには特に知らせなかった。

そして、バイトして買ったスーツケースいっぱいの本を、神保町で6万円に変えたのだった。6万円は、思っていたより高かったような、大学に7年いたことを思うと安かったような、ちょうどよかったような、不思議な金額だった。

それから4年経って、もうスーツケースも捨ててしまったし、原付も手放した。今になって本郷の埃っぽい空気が時々無性に懐かしくなる。本くらいなら思いつきで買える余裕ができたので、当時の先生方の本を買い直したり、好きだった論文を検索したりしている。当時より随分と頭がクリアで、精神的余裕もあるから、研究の方法論も少しはわかる気がする。けど向いてないのは確かで、戻っても同じことの繰り返しになるだろう。ただ過去を懐かしみ、美化して、分かったようなことを呟きながら仕事をしている。本郷キャンパスにはそれ以来行っていない。いつか行けたらと思うけど、今はまだ行きたくない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?