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悪者がいないという地獄(前編)

母と兄は日常的に私を殴り、人格を否定し、容姿を貶めた。父は気付いていないはずがないのに、何も言わず、何もしなかった。小学校、中学校では私はいじめられ、いじめられていることを母と兄には馬鹿にされた。

10代の私は彼らへの怒りで生きていた。怒りが持てたということは、根本に自分は生きている価値がある存在であるはずだという信念があったからだろうが、それはもしかしたら祖母や他の大人との関わりで育まれたものかも知れず、私が死ななかったのは本当にただの幸運だった。そうでなければ彼らの扱いを当然のものとして受け入れていて、生きている価値がないと言われても反発しなかっただろう。

10代の終わりに、私は大学進学とともに家を出て、彼らと離れた。そして、最初に気づいたのは、大学の同級生たちと、地元の小学校・中学校の同級生たちの層の違いだった。大学の語学のクラスでは、親が離婚している家はほぼなかったし、実家は団地や借家ではなく持ち家だった。夜に親が仕事に出ることもない。親が医師、弁護士、代議士、地主も少なくはなかったし、小さい頃から都内の私立に通っていた子も、父親の赴任先のブリュッセルで生まれたという子もいた。地元では、体感でクラスの半数弱は親が離婚していたし、親が留守がちで祖父母と夕飯を食べる子もいたし、団地住まいも多かった。そして、私が大学に行っている同じ時に、何人かは高卒または中退して水商売をしていたし、何人かは子供を産んでいた。

中学のとき、無視のターゲットから外れていた時になんとなく一緒にいた子が二人いた。

一人は母親が再婚し、義父と三人暮らしだった。義父がキモい、義父の入ったお風呂は水を取り替える、義父から渡される小遣いは捨てると言っていた。そして、彼女は、小遣いを捨てて、援助交際をしていた。当時から彼女はとても綺麗だった。高校に行ってから、芸能活動をしていたと聞いたが、具体的なことは知らない。

もう一人は、母親の携帯を触っていたら、母親と浮気相手と思しき男性とのメールのやりとりを見てしまったと言って相談してきた。なぜすごく親しいわけでもなく、クラスで浮いていて話しかけると一緒に仲間外れにされそうな私に相談してきたのかは知らない。話だけ聞いて、何も有用なことはいえなかった。彼女はピアノを習っていて、高校は音楽科に行ったのだが、本人も恐らく自分の才能では近所のピアノの先生がせいぜいだと気づいていた。それでも、母親に、一日何時間か決められた時間練習することを強いられていたらしい。彼女の家にも行ったことがあるが決して裕福な家庭ではない。むしろ、家の中で、黒いヤマハのピアノだけが異質に光っていた。その異質さが何かの執念の現れだったのだろう。

前者の子からは、一緒にいても「〇〇はブスだからしかたないね」とか、「〇〇の触ったもの使いたくなーい」とか、笑いながら言われていた。後者の子は、彼女が「練習しないと母親にハサミを突きつけられる」とこぼしていて、つい「私も親に殴られてて、夜中に刺そうかと思ったことがある」と言ったら、後日数人の前でバラされて馬鹿にされた。

大学生になった私は、彼女らとキャンパスで周りにいる子たちを比べて見て、ああそうなんだと理解した。彼女らもぎりぎりだったのだ。彼女らも何かの被害者だ。そして、私は、彼女らの傷に決して寄り添えてはなかっただろう。もしかしたら気づかぬうちに更に傷つけたかもしれない。手負いの獣が奪い合っただけのことで、彼女らが一方的に悪いわけではない。

これは余談だが、前者の子は20代半ばで何らかの理由で婚約が破談になり、今も外見と若さを売りにする活動を細々と続けているらしい。後者の子は大学も音楽科に行ったが、知る限りはヒモ男を養うためにチャットレディや個室マッサージ嬢や水着や下着姿を狭い空間で撮影させるモデルをやっていた。彼女は、23歳のときに連絡が来て、何度か飲みに行ったりして、色々な話を聞いたが、最後は私が怖くなって連絡を断ってしまった。それに、やはり私は中学の時の、私の秘密をバラしたり、集団と一緒に私を無視したり、馬鹿にしたりしたことを許せてなかったようだった。

長くなったが、地元の同級生たちも決して一方的な加害者ではないと気づいたのが最初だった。その構造に気付くと、次は兄だった。兄も私と同じように母に殴られ、怒鳴られていたし、お兄ちゃんだからと恐らく色々なことを強いられていただろう。私も兄も家庭内で「いい大学に行け」とはよく言われていたが、勉強は明らかに私の方ができた。

そこまではいい、そこまでは受け入れられた。では母は?

問いが浮かんだときには頭を殴られたような衝撃だった。そして、この問いを解くのに10年かかってしまった。親の場合は同級生や兄とは訳が違う。大学生の私は、私のことが嫌いなら産まなきゃ良かったし、育てるのが嫌になったならどこかに預ける手もあったし、そもそも親は子供を愛する義務があるのではないかと思っていた。その前提の上で「でもお母さんもお母さんで大変だったから仕方ないじゃない」が成立するのか、というのが問いの本体だった。

まだ完全に片付いてはいないが、この10年、問いの答えはかなり変遷があった。一気に書き上げるだけの体力がなかったので、詳細は後編に譲りたいと思う。半端で申し訳ない。今日は、もう、おやすみなさい。

→後編、書きました。よかったら読んでください。


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