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虐待されていた私がなぜ助けを求めなかったか

虐待相談ダイヤルに電話をかけ、ワンコールで切ったことが何度もある。私に目をかけてくれていた小学校の先生に「悩んでることない? なんでも言って」と言われて、涙を必死に堪えながら黙って首を振り続けたこともある。母と兄から殴られる毎日はもちろん辛くて、家出をして生きていけるだろうか、実家を出るその日まで私は自分を殺さずにいられるだろうかと、ずっとぐるぐる考えていた。

私はそれなりに知恵があったから、助けの求め方は知っていた。自宅のWindows98で、助けを求めた後どうなり得るかも調べて知っていた。それでも、どうしても助けを求めることはできなかった。

なぜしなかったのか。親に愛されていない子供だと知られるのはとてつもない恥だと思っていたし、その事実と対峙する勇気もなかった。私は誰にも愛される価値のない人間で、それを知られたら皆が私のことを嘲笑うのだと思っていた。それは殴られたり、「いらない子だった」と言われ続けるより、その頃の私にとっては耐えられないことだった。

私がそれで非行らしい非行に走らなかったのは、ひとえに母と兄から「ブス」「のろま」「友達できないダサいやつ」と言われ続け、学校でも同じような扱いを受け続けたために、私を受け入れてくれる非行集団なんてあるわけないし、家出をして泊めてくれる人がいるわけないし、お金を稼ぐこともできないだろうと確信していたからだ。どこに行っても居場所は多分なくて、家の中と学校にいれば少なくとも生活と身の安全の保障はされる。死にたいけど、死んだら周りの思う壺だから死にたくない私は、公的機関に助けを求められないなら、今の生活を維持するのが唯一解だと思った。

それに、もし私が助けを求めたことで母が何らかの処罰を受けたり、周囲の人に虐待の事実を知られるのはかわいそうだと思っていた。母は同級生の親の中でもそれなりの存在感を持っていたし、地域のママさんバレークラブではリーダー的存在だった。母はバレーの仲間から頼られ、相談の電話をよく受けていた。その母の自己像が崩れるのは、なんだかとてもかわいそうだし、切ない。

だから私は、自分が親に愛されてないことを知られること、その事実と直面することを避けるためと、母にひどいことをしたくない思いで、助けを求めずにじっと時間が過ぎるのを耐えていた。

そして、高校生になると、何も感じなくなった。何も欲しいものも、したいことも、して欲しいこともないから、世界に期待することがなく、裏切られることもない。その頃には体が大きくなって殴られなくなっていたし、罵倒の言葉は鼻歌を歌っていれば聞き流せた。今思うとおかしな光景なのだが、母が1時間以上怒鳴っている間、私はその前に立ってそっぽを向いて鼻歌を歌っているのだ。母から鼻歌について詰られた記憶はない。そのまま自動運転モードで高校生活を送った。

ただ、影響は体に来ていて、息をうまく吸えなくなった。実はこれは29になった今でもそうで、息を吸い切ることができなくて常に薄く苦しい。お酒を飲んだり、何かに夢中になってるときは大丈夫なのだが、夜寝るときに意識してしまうとなかなか寝付けない。

高校でその症状が出た私を母は心配して、色々な病院に連れて行った。そして「ストレスですね」と言われ、私は「心当たりがない」と言い続けた。それはそうだ、何にも期待しない自動運転モードは至って快適なのだから。

ずっと母に愛されずに育ったと思っていて、いやあれは母なりの愛だったのだと気づいたのは大人になってからだったし、夜中に包丁を握りしめて殺してやろうと何度も考えたほど憎かった母のことを、私はどうしようもなく求めていたと気づいたのも随分後だった。

ともあれ、そのときようやく、虐待を通報しなかったことを思い出して、納得した覚えがある。あの頃、母がそばからいなくなってしまうのは耐えられなかったんだなと思った。

廊下ですれ違う時とか、ふとした瞬間に肩が触れて、その肩がずっとじんわり温かいような気がしたこともその時思い出した。頭の上に手を上げられると反射的に払ってしまうのだが、もしかしてあれは私を撫でてくれようとしてたんじゃないかとか、だとしたら悪いことをしたなとか、分かっているのに甘美な妄想に浸ったのもこの頃だった。

今でもやっぱり母が好きだ。私はずっと、母が好きだった。その証拠に、noteに何を書いても母へのラブレターになる。これは、母に届かないことを祈りながら書くラブレターだ。

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